村人の手記・証言/戸坂村の人たち

4.原爆当時の戸坂千足

8月6日、よく晴れた日でした。その日は麦の供出(きょうしゅつ) の日で、8時ごろ町内の人たちは私の家の前に集っていました。北から飛行機が3機白い尾を引いて頭の上近くまで来ました。私たちは「ビーだ」(B29のこと)と、防空壕(ぼうくうごう) に逃げこむ途中ピカッ!とり、同時にドンと言う大きな音がしました。外に出るとうす暗く夕方のようになり、広島市内の方を見ますと黒い煙がきのこのように天高くまい上がり、まわりは火の海でした。翌日も火が続き煙が何日も続きました。家に入って見ると窓のしきいははずれ、窓ガラスはこなごなに壊れ、天井(てんじょう)は飛び上がり、家の中は足のふみ場もありませんでした。

間もなく私の家にたびたび来ていた工兵隊(こうへいたい) 兵隊さんが、全身真黒に焼け、かけつけて来ました。声をきいてその人だと分かりました。「水をくれ。油をつけてくれ」」と叫び続けました。

それから、次々と焼け出された人々が逃げ出して行くのが続きました。目のとび出た人、背中の皮膚(ひふ)が焼けてぶら下がっている人、顔や手足の焼けている人、着物が焼けてぼろぼろになっている人、行列になって続きました。

近くに繭(まゆ)工場が空き家になっていたため、焼け出された人がムシロを敷いて寝ていました。

戸坂小学校には、全身真黒に焼けた人が集っていました。そして、「水をくれ。水をくれ」と叫び続けました。でもあまり水を与えてはいけないと言うので与えませんでした。

女の人はその人たちの炊き出しに何日も行きました。学校に行く途中に死体が道によこたわっていました。兵隊さんたちも今話をしていても、よりかかるようにして倒れ、死んで行きました。太田川(おおたがわ)の水を飲みに行って、そこで倒れて死に、また、水に入って死に、黒い死体が魚のように流れました。毎日5〜6台の車で死体を運び、山で死体を焼く煙とにおいがして、どんよりと暗い日が何日も続きました。2日目、小倉(こくら)の兵隊さんがゴザを1枚持って手つだいに来ました。

私の家でもヤケドをした二部隊の人を5人面倒(めんどう)を見ました。おかゆを一口一口食べさせてあげました。親に書いた手紙も手からヤケドして水が出てべたべたになっていました。

牛田(うした)神田橋(かんだばし)のミシン工場で働いていた娘さんも、親が探しに来て、首も手も足もなく木を切ったような胴体をゴザに包んで帰り、自分の娘の姿を見てくれと言われました。

近所の人も探して連れて帰っても、治療の方法もなく死んでいきました。行方不明で帰って来ない家族の人は、毎日毎日何日も何日も探して歩きました。

広島市内の方を見ると、見わたす限り焼け野原で、ビルの残がいが所々に残っているだけで見渡す限り焼けあとで、はるか向うに山が見え何日も煙が出ていました。

壊れた家の整理、焼け出された人の看護や炊き出し、毎日あわただしい日が続き15日終戦となりました。

これが戦争だと言う生き地獄(じごく)を目前(もくぜん)に見て感じ、その残酷(ざんこく)さは心奥(しんおう)深くはっきりといつまでもやきついてどんな言葉をもっても、筆をもっても、語りつくせるものではありません。2度とこんな残酷な戦争のないよう、死んだ方々の冥福(めいふく)をお祈りいたします。(手記)

炸裂時(さくれつじ)、音とともに回りが月夜のように暗くなった。よく本などの写真で見るようなきのこ雲が見えた。家の被害は、天井(てんじょう)が抜け、ガラスが割れ、障子(しょうじ)のさんが1本残らずふっとび、敷居(しきい)のほぞが抜けた。

20〜30分すると牛田(うした)の方で被爆(ひばく)した人が来始め、その後どんどんやって来た。やっと戸坂にたどり着き、縁に座って1時間ほどして死んだ人もいた。

戸坂の人は、義勇隊(ぎゆうたい) 訓練を終え、広島に肥(こえ) 取りに行った人が亡くなった。Aさんは村の釜(かま)を買いに行って亡くなった。千足(せんぞく)では、1家に1人くらいは亡くなっているのではないか。

役場で、前もって非常時(ひじょうじ) の話し合いができていたので、各家へすぐ軍人さんが割り当てられた。帽子をかぶっていたところだけ髪が残り、その下はまる焼けだった。

養蚕(ようさん)の製糸工場にムシロを敷いて、病人を入れた。魚が焼けたように真黒になった人もいた。着替えをさせる時、ヤケドから出る体液で着物がびしょびしょになり、ぬがせるのに、くっついて大変だった。病人は「油をつけてくれ、水をくれ、」と言っていたが、水はいけないと言われていた。家にいた軍人さんが、家に手紙を書かれたが、手から汁がたれ、すぐ紙がベトベトになった。

学校の部屋、廊下(ろうか)は病人でいっぱいで、運動場にムシロを敷き、竹で仮の屋根を作り影をつくってそこへ病人を寝かせた。

死人は2〜3人を車に積み、桜ヶ丘(さくらがおか)へ運んで焼いた。各家にだいすくを割り当て、出してもらって焼いたが、各家とも出しつくし、山の生木(なまき)を切り石油をかけて1度に10〜20人くらい焼いた。死体処理は、小倉(こくら)から兵隊さんが来てした。

高野 増一(たかのそういち) (当時・千足常会長) 話