村人の手記・証言/戸坂村の人たち

7.原爆前後の回想

私の家は当時の兵器補給廠(へいきほきゅうしょう)の近くで、空襲(くうしゅう)の危険があり、地下水が高いので防空壕(ぼうくうごう)が掘れない不利があったので、母と長女、同居していた伯母の3人を、県北の村に疎開(そかい)させることとし、そのうち、私たちも、どこかへ疎開せねばならぬと思っていたが、幸い、県の課長が、すでに借りることになっていた疎開先へ行かないこととなり、それを私が引き継ぐことになった。疎開先は、広島市を距(へだ)たる5キロの戸坂(へさか)村(現在は広島市東区戸坂)である。いよいよ引っ越しの準備となったが、引っ越し荷物をいかにして運搬するかで頭を悩ました。県庁で大八車(だいはちぐるま)を借ることができたので、早速(さっそく)申し込んだが、なかなか順番が回って来ない。主な家財は、落ちついてから戸坂村の馬車(ばしゃ)屋さんに運んでもらうことにしていたので、雑多な家財を、妻と運ぶことにした。そのころ、1升(しょう)びんの空きびんも立派な家財の一部で、もちろん、1本残らず箱に詰めていた。ようやく順番が来て、大八車を家にひいて帰ったときは鬼の首でもとったような喜びを感じた。積めるだけの家財を満載して、5時ごろ家を出た。宇品(うじな)線の踏切を過ぎ、広島駅附近を過ぎるころまでは快調なすべり出しであったが、次第に、荷くずれがしはじめ、幾度か立ち止まって梱包(こんぽう)を整えた。妻と交互に、引く、押すを繰り返すのであるが、引き方が足りない。もっと押せ、などと、小言を言いながら、空襲警報も何のその、月明かりを頼りに、労働力の極限(きょくげん)を駆使(くし)して、所要時間、実に6時間、疎開先に落着いた時のあんど感は、苦難の連続であったがゆえに何とも表現し難いものであった。

疎開先の農家に落着くと、早速、庭先を無断(むだん)で開墾(かいこん)して甘藷(かんしょ)を植えた。柔かい甘藷の葉も食べてみた。今にして考えれば農家の庭先は、農家の作業場である。全く迷惑な疎開者と思われたことと思う。疎開先からの汽車通勤は、決して楽なものではなかった。わずか15分で広島駅に着くのであるが、超満員の列車に乗り込むこと自体が、男性にとってもひと苦労で、まして女性においておやである。トンネルに入ると粗悪な石炭をたくためか、ものすごい煤煙(ばいえん)につつまれ、トンネルを出ると、あちこちで咳(せき)の連続である。そして、ホームに着くと、われ先にと、走って、電車を待つ列に加わるありさまであった。ある日、最後尾の客車に辛(かろ)うじてぶら下がり、力つきて、疾走(しっそう)する列車から転倒して命拾いをしたことがあった。町内会の常会(じょうかい)はひんぱんに開かれ、その議題は、村有林の松根油(しょうこんゆ)を採るための松根掘りと、まき作り、道普請(みちぶしん)などの勤労奉仕がその内容であった。

たぶん、日曜の朝のことであったと思うが、濃霧の中を爆音高く飛来した敵機(てっき)が、日本の敗色を伝えた降服(こうふく)勧告の紙片を散布し、そのビラ数枚がため池に浮んでいたことを思い出す。そのビラの事を軍隊用語で伝単(でんたん)と言った。爆音によって敵機であることが判ったが、飛来するごとに、当時4歳の長男を伴って、いち早く、芸備線(げいびせん)のガード下に避難した。外地(がいち)で、幾度か空襲の危機にさらされ、ラングーン市で、現地民が空襲で生埋めになったのを救出したことや、防空壕から10メートルの箇所に、3回も爆弾が落ち、夜間、火災の燃えさかる中を、引火の危険にさらされた自動車の引き出し作業に従事したなどの体験をもつ私にとっては、空襲の危険が迫れば、自動的に防空ごうに避難(ひなん)することが、習慣づけられていたからで、農村の人たちは、このような場合でも、平然と野良(のら)仕事を続けていた。のどかな農村の風景と、疎開先の純朴で、しかも、物心両面にわたる親切なもてなしは、一応、空襲の脅威(きょうい)から逃れた気安さとともに、一層離れ難い愛着となり、疎開中は、できるだけ村の人たちの迷惑にならぬよう心掛け、私の力で、役に立つことがあれば喜んで引受ける気持に追いやられるのであった。

そのころ、私は、現在の職別でいうと課長補佐の職にあった。8月5日、突然課長に呼ばれて、明6日に人事異動の相談をしよう、9時半までに出勤してくれとのことであったが、生憎(あいにく)、私は、その日、建物疎開作業の当番で、日を改めてくれるよう申し入れたが、誰かと交代するように言われたので、庶務(しょむ)主任に、その旨を伝えて変更することにした。誰が私の交代であったか、知ることもなく、知ろうともしなかった。課長が9時半までに出勤すればよいと言ったのは、職員のほとんどが疎開して汽車通勤をしており、広島駅前の電車停留所は、ラッシュ時には、えんえん長蛇(ちょうだ)の列が電車を待つありさまだったし、遠距離の地点に勤務場所があるので、出勤時刻を厳格にすることは酷(こく)に失するという事情があったからである。

8月6日、空は快晴、炎暑を思わせる白雲を仰ぎながら、細いたんぼの道を通って駅に向かった。長い袖のYシャツと、肩には戦地で作った手製の図嚢(ずのう)をぶらさげて、何時ものように、通勤列車に乗り、広島駅着。電車を待つ列がその日は特に長かったように感ぜられたので、その列を右に見て、猿猴橋町(えんこうばしちょう)電停近くにある親戚の薬局を訪ねることにした。店の主人が応召しているので、このまま商売を続けていいか、どうか相談をうけた際、私は、広島市は必ず空襲される、まして広島駅附近は最も危険であるから、疎開にふみきるようすすめた事情があって、その状況を確かめるためであった。親戚は、その通り疎開していたので、ひとまず安心したが、その店はすでに時計屋に貸したらしく、主人らしき人が陳列棚に時計などを飾っていた。ふと時計を見ると8時10分前、9時半までに出勤すればよし、あごひげはのびているので、2〜3軒先の理髪店に足を運んだ。カーテンをおろして、開業する様子もなかったが、私は、店の人に対して、開業するまで店内で待たせて欲しいと告げ、その承諾を得た。しばらくして、カーテンが開かれて仕事にとりかかってくれた。私が第1番の客であったことはもちろんだが、次から次へと客が入り、やがて満員となった。鏡に向かっている間に、空襲警報が鳴り、しばらくして解除になった。ひげ剃りは7分通り終わっていた。

その時である。いまだ戦地でも経験したことのない大きな震動があった。瞬間、直撃弾(ちょくげきだん) と思い、腰掛から素早く抜け出し、店の中央部に伏した。メリメリと家屋の崩壊(ほうかい)を感じたが、これくらいのことでへこたれるものか、この家屋を自分の身体で支えてみせるという闘志がわいた。握りこぶしをかたくし、歯を食いしばり、身体をひきしめて家屋の落下を待ち構えた。ついに落ちてきた。そのとたんに、おもりのようなもので脊椎(せきつい)を強打されて、「ウーン」とうなった。四辺は真暗くなったが、自分は死をまぬがれた。このように思うと、にわかに元気が出て、一刻も早くこの暗やみからはい出そうと決心し、周囲をおもむろにながめて出口を探した。一条の光線が目に映じ、その方向が道路であると直感して、その方向へはい出ることにした。脊椎を強打されているので、その箇所に激痛を覚えたが、動作に移ってからは無我夢中であった。それまでの間、あちこちで「助けてくれ」と叫ぶのを聞き、私も同様に叫ばねばいけないような気持で、そのように叫んだ。外に出て立ち上がった時、真夏の太陽をまぶしく感じた。Yシャツは血に染まっていた。たぶん、とっさの伏せに入ったとき、額にうけた傷の血である。家に帰るか、県庁に向かうか、一瞬にして、瓦礫(がれき)の山と化した市内の状況をぼう然と眺めながら、思案した。県庁へ行こう、自分は行かねばならぬ責任がある、脊椎の強打した箇所が痛むし、上半身を動かせば、足指の先まで感電した時のように痛むので、両腕を身体の左右に固定する姿で、荒神橋(こうじんばし)の方向へ歩いた。その途中、1人の婦人が声をかけた。そして、救急薬をもっているかとたずねた。持っていないと答えると、煙草(たばこ)は、と言ったので、ズボンのポケットから、ゴールデンバットを差し出した。すると、その婦人は、1本の煙草をほぐして、額の傷口に当てて、自分の救急袋から包帯(ほうたい)を出して、応急手当をしてくれた。混乱の最中(さなか)に、そのような奇特な行為をしてくれたその婦人の姓名も年齢も顔かたちも、少しも憶(おぼ)えていないのは、一体どうしたことなのであろうか。私はその婦人に一目でもお会いし、できる限りの感謝の気持を表わすことができればと、常日頃忘れたことがない。私にこの稿を起さしめた動機の1つは、この婦人の真心が身にしみ、親切というものは、なそうとしてもできるものではなく、相手の苦境を、自己の利害損失を考えずに、自然とわき出ずるところに価値があり、しかも誰彼の区別なく行うところに真実さがあることを強調したい気持があったからでもある。

荒神橋の方へ向かったものの、市の中心部は、夕立の前に、空がにわかにかき曇るような暗さに包まれ、電車の姿はなく、しかも、罹災者(りさいしゃ) を満載(まんさい)したトラックが、駅方面に逃れるように走っており、この状況では、県庁に行くことは到底(とうてい)不可能で、急ぎ家に帰ることにした。ところが、印鑑や救急用品などを入れてある図嚢が、理髪店に置いてあることを思い出し、一縷(いちる)の望みを抱いて立ち寄った。たたまれたような家、否、瓦礫(がれき)の中から助けてくれの叫び声が聞えたので、何とかして救出したいものと努力したが、いかんせん、いったん起き上がって歩行はできても腰が曲がらず、口惜しい思いで、今に兵隊さんが来て助けるからと告げて、むなしく、電車線路沿いに広島駅の方へ向かった。途中、崩壊を免れた家の2階の日覆(ひおおい)が燃えて、1人の男が懸命に、防火貯水槽の水を、バケツでかけていた。しばらく見ていたが、なかなか燃えている箇所に届かず、火を消しとめるのを見届けないままに、また、荒神橋筋の大通りに出た。1台の大型バスが、多くの人を乗せて来たので、他の負傷者とともに拝むようにして、乗せてくれと叫んだ。その哀願が奏功(そうこう)してか、バスが止まった。私は脊椎が痛むので、そっと取っ手を握り、やっとのことでその車に乗ることができたが、さてどこに行くのかさっぱり判らなかった。やがて、愛宕(あたご)の踏切を通過し、左にうかいして、ある病院の門のところで止まった。その時初めて行先が分ったが、多数の患者が押しかけて、混雑するので、われわれ全員は玄関払いをくうありさまで、やむなく、おのがじし退散せざるを得なかった。私は致し方なく、衛生兵であったO町の戦友宅へ向かった。彼の家は、脱脂綿を作る工場であり、平素、親しくつきあっていた間柄であったので、彼の家に行けば、なんとか治療ができるかもしれない希望があったからであるが、遠くから望む彼の家もまた、半壊していたのでとりやめ、東練兵場(れんぺいじょう)でひと休みすることにした。ボロボロの衣服をまとい男女の区別もつかないようなヤケド患者が、次々と練兵場に集ってきた。顔見知りの人にも会ったが、お互い負傷していて、ろくに口もきけなかった。練兵場に集った連中のほとんどは、虚脱(きょだつ)状態で、茫然(ぼうぜん)と立ちすくんでいたが、誰からともなく、こんな状態で集っていると、敵の機銃掃射(きじゅうそうしゃ) をうけると言い出したので、皆一様にくもの子を散らすように立ち去った。私は、茂みに覆われた山道を選び、上半身の動揺に気を配りながら、1歩、1歩足を運んでわが家へと急いだ。足早に歩く人は、次々と私を追い抜いた。途中、しきりにのどが渇いて、幾度か農家に立ち寄り、水を請(こ)うた。峠を越えると、何の変哲もない静かな農村がひらけ、開放されたような気分になった。芸備線(げいびせん)沿いに歩いて再び峠を越すと、戸坂村で、もう我家は近い。坂道となって足取りも軽く、ようやく我家にたどり着いたのが、午前11時半ごろであった。妻は私の包帯を見て、一瞬驚いたが、健在であることがはっきりしているので、不幸中の幸いだとして喜んだ。

疎開先の農家の天井板は、はねあがり、太い梁(はり)が1ぐらい浮いて、その部分がはっきり分り、鏡台は毀(こわ)れ、たんす、茶棚は倒れ、窓ガラスは全部粉みじんとなり、畳もはね上がり、足の踏み場もないありさまであった。広島市を距(へだ)たる6キロの地点で、しかも山でさえぎられているにもかかわらず、かくのごときありさまであったから、いかに爆風(ばくふう)が強じんであったかが想像できる。早速床をのべ、妻に抱えられて仰向けに寝た。そして、額の傷口を消毒して、流しこむようにヨーチンをつけた。軍隊生活で、ヨーチンをつければ絶対に化のうしないことを知っていたからである。臥床(がしょう)して、妻と、広島市の模様を話し、妻からも疎開先の模様をきいた。妻は縁側で何気なく、広島市方面を眺めていたところ、虹でもない美しい光の塊が目にとまり、次女を呼んで、あれをごらんと言った途端(とたん)、一瞬、目がくらみ、気がついた時は、8畳の部屋にいたとのことであった。妻は一刻も早く医師の診断を請(こ)うて私の傷の治療を急がねばと、陸軍病院の分院となっている小学校に行き、軍医の往診を懇願(こんがん)したが、あまりのおびただしい患者の列を見て、到底(とうてい)軍医の往診は不可能であることを了解して帰宅し、疎開先の人に相談したところ、天佑 (てんゆう)というべきか、ハワイで30年もほねつぎを業とした60余歳の老人農夫のいることを知り、この人に頼めば何とか治療ができる希望がもてるとして、一家が急に明るくなった。ほねつぎさんのもとへは明朝早く行くことにして、今日1日はゆっくり静養することにした。寝返りをしようとすれば、脊椎の部分に激痛を覚えた。しばらくして、顔と上半身をひどくヤケドした兵2名が、縁側に来て、ここでしばらく休ませてくれと言った。妻は、あまりにいたいたしい姿を見兼ねて、すぐさま、たんすから新品の晒(さらし)じゅばんを出したが、傷ついた腕が通せないので、袖下と脇縫いをといて肩に羽織って着せた。この人たちは、竹原(たけはら)の人で、最近、応召したばかりの老兵で、上半身を裸にして、川岸で工兵の作業演習中に被爆したのだそうだ。時々、足のふくらはぎの部分がけいれんするので、妻に対して、引っ張ってくれと頼んでいた。竹原へ帰る途中立ち寄ったので、道中の食料が必要だが、米が不足の時であり、ジャガ芋の粉ふきと、スルメイカを裂いて折り詰めにし、駅まで見送ったが、間もなく、妻はいそぎ後戻りし、1枚のゴザを持ってまた駅に向かった。この人たちが駅で汽車を待つ間に腰をおろすための思いやりであった。やがて、また、重傷の3名の幹部候補生が来た。陸軍病院の分院に収容できない患者は、村内で余裕のある部屋を持つ農家に割り当てられたからで、私の寝ている隣室に彼らが療養することになり、夜具、蚊帳(かや)、枕などは、離れに住んでいた疎開者を加えて3軒で提供することにした。妻は、私とその3名の看護を受け持つことになったが、少しも苦労の色を見せず、こまめに立ち働いてくれた。疎開先の農家は、母親と1男1女の家族であったが、中学生であった2人の子どもは午後になっても帰らず、母親はいたく思案していたが、夕方、遅く相次いで、しかも、無事で帰ってきた。2人とも、遠い道をうかいして歩いたので、遅くなったとのことで、母親の喜び、また一入(ひとしお)であった。隣室の3人の患者は、話し声もなく、時折り扇を使う音が聞こえるのみで、静かに夜が更けてきた。爆風(ばくふう)で吹き上げされたままの天井板を眺めながら、広島市を一瞬、廃墟(はいきょ)と化せしめた爆弾は、一体、どんな兵器なのであろうか。今後、このような兵器が使われたならば、どんなことになるであろうか。日本国民は、1名残らず死んでしまうであろう。恐ろしいことだ。早く戦争が終結しなくては大変なことになる。同僚や、親戚の者の消息は全く分らず、いろいろな思いをめぐらした。近くの人たちの悲報が次から次へ伝わってきたからである。

夜が明けて、早速、妻は、ほねつぎのK氏宅を訪れたが、K氏の独り息子も被爆したらしく、隣組の人たちと、これから広島市へ探しに行くところであったので、やむなく、翌日診てもらうことにして、むなしく帰って来た。間もなく、妻の兄嫁がしょう然と、広島市から徒歩で訪ねて来た。兄は、当時、市内のある製鋼所に勤めていた関係で、所員を引率して県庁附近の建物疎開作業に行き、作業中被爆して、そのほとんどが即死したが、本人は即死を免(まぬがれ)たものの、ヤケドの身を附近の川でしばらく休養し、はい上がろうとすれば、石垣が熱くて上ることができず、熱のさめるのを待ってはい上がり、段原町(だんばらまち)の自宅に、夜遅くたどりつき、手当てのかいもなく、7日午後1時ごろ、息をひきとった旨を告げに来たのであった。顔は火傷で膨(ふく)れて、見るに堪えない姿であったとか。妻と兄嫁が相抱いて、泣き崩れたことは言うまでもない。翌8日、妻は例のほねつぎのK氏宅を訪ねた。K氏は依然として息子さんが行方不明なので、その日も、広島市へ探しに行って留守なので空しく帰宅したが、4日目の早朝、K氏宅を訪ねて、広島市へ行く前に往診を依頼したところ、幸い、快諾を得て、K氏とともに帰って来た。彼は脊椎を見て、即座に治りますと言って、誰か屈強な男を連れてくるよう、妻に話した。まもなく、陸軍大尉(たいい)肩章(けんしょう)をつけた将校を連れて来た。K氏と将校が、私の身体を伸ばすように引張って、K氏が脱臼した箇所を、3度、力をこめて押えた。その度に激痛を覚えたが、3度目の押しで間違いなく脱臼(っきゅう)が正常位となり、自分の手でふれてみても分るくらいであった。K氏は、家の大黒柱(だいこくばしら)が揺らいだのも同然で、いつ、いかなる部分に故障が起こるかもしれないが、余病さえでなければ心配はないと言って力づけてくれた。これで元の健康体に復するのだと思うと、嬉しさがこみあげてきた。ここにあらためてK氏のご厚意に感謝の意を表わさずにはいられない。

農家は、ヤブカやハエが多いので、終日、蚊帳(かや)を吊っていたが、時折り隣室の重傷者は、縁側に出て扇を使っていたが、話し声は全く聞こえなかった。それから、毎日のように、軍医衛生下士官が巡回治療に来て、隣室の患者の皮膚に塗布薬を塗ったが、その都度、私の額の傷口にヨーチンをつけてくれた。私の脊椎の疼痛(とうつう)は、それ以来、日増しに軽くなり、寝返りをしても、さほどこたえない程度となった。離れの6畳に疎開している灸師のもとには、ひっきりなしに患者が来た。灸をすれば、白血球がふえるというのがその理由のようであった。

約1週間して、隣室の患者は、治療しないまま郷里へ帰ることになった。妻や疎開先の主婦も駅まで見送ったが、死出の旅のような一抹(いちまつ)の淋しさを後姿に感じた。患者が帰った後、お互いが提供した夜具その他を片付けたが、臭気のはなはだしいパンヤの枕はすてることにした。その室に私は移った。爆風(ばくふう)で吹きあげられた天井を応急修理したが、すきまからは所々空が見えた。破れたガラス戸やふすまには紙を張ることにしたが、その紙さえ求められない時代であったので、やむなく、亡父が大切に保存していた謡本(うたいぼん)紙を使用することにした。なかなか風流に見えたが、なんとなく父に済まないような気がした。そのころ、私は、自力で厠(かわや)に行けるようになって、急に家中が明るく、広々とした感じとなった。ただ奇妙に感じたのは、平素、痛くもない歯が痛んだり、カに刺されて、かいた部分が化のうしたりした。ある日、突然、私の課の職員が訪ねてくれた。私の元気な姿を見て、意外の面持ちであった。私から県庁へ連絡する方法がなかったので、私は即死したものとして、その氏名の中に記されていたとのことであった。その職員は、課長の長男が即死したので、課長が欠席、課の技師7名即死、その他重傷者多数を出して、課の機能はまひしているので、事態の収拾のため、是非とも、1日も早く出勤してほしい旨を訴えた。

翌日から、私は歩行の練習を始めた。毎日、つえをたよりに、少しずつ遠くへ歩くことにした。何とかして自転車に乗れないものかと、庭先で練習したが、わずかの勾配を、自転車を押す場合に、非常な労力を必要としたことは、確かに異状な身体の変化だと直感した。8月15日、日本は、ポツダム宣言を受諾(じゅたく)して、連合軍に降服(こうふく)する旨の天皇陛下の玉音(ぎょくおん) を、ベッドで聞いた。私は、思わず手をたたいて、終戦を喜んだ。原爆の恐ろしさを体験したものは、ひとしく、心から喜んだに違いない。日本は滅亡しなかったという喜びと、戦争の恐ろしさ、悲惨さから解放されて、平和が訪れるという喜びであった。2週間経過して、脊椎の脱臼した箇所は、硬直感はあるが、痛みはほとんどなくなったので、身体の調子が悪ければまた静養することにしてひとまず出勤してみることにした。(手記)

自費出版「原爆直後の回想」より(抜粋)

原田 一彦(当時 広島県庁勤務) 記