村人の手記・証言/戸坂村の人たち

6.私の8月6日

原爆の体験から、ことばにできることは戦争は二度とあっては、ならないということです。

八月六日は 死ぬ日だったのですか
死なねばならぬ日だったのですか
傷つく日だったのですか
傷つかねばならぬ日だったのですか
病むはずのない病みが始まり
死ぬはずのない者が死んでいきました
私の八月六日は
ことばを持たない日でございます

昭和20年、当時の戸坂(へさか)は、農業を主にした静かな村落だった。村をあげて、ただひたすらに食糧(しょくりょう)増産(ぞうさん)に励(はげ)んでいた。毎月開かれていた「常会(じょうかい) 」の集りにも、「食糧増産」の声が出ない集いはなかったのである。

食糧増産といっても格別の特産物の生産ではない。主として、米・麦・芋類で、各戸の耕作(こうさく)面積に応じて、供出量(きょうしゅつりょう) の割当てが来る。何かの基準がないと割当てもできないことは理解できるが、人手が不足する中での増産は、いきおい無理な労働を長時間することになり、夜は すっかり疲れ果てていた。疲れた家族が、黒い覆(おお)いをした小さな電燈の下で、1〜2菜の食事をとる間も、空襲(くうしゅう) 警報(けいほう)が発せ られたりして、だれも沈黙がちであった。

昼間の戸坂はほとんど人通りがなかった。が、その人通りのない農道を疎開(そかい) 荷物を積んだリヤカーや大八車(だいはちぐるま)が毎日のよう に広島市から来るのを見かけると、戦況(せんきょう)の切迫(せっぱく)を感じざるを得ず、深く沈むような不安がつのるのだった。

安田(やすだ)女学校から、教材を疎開させてほしい旨の依頼を受けたのは6月になってからだったと思う。ちょうど女学校に通う年齢の子どもを持っていた私は、学校の苦境(くきょう)もおぼろげながらも理解できる。しかし、学校の校舎のようには管理もいきとどかず、せいぜい土蔵(どぞう)か納屋(なや)に置く程度のことにしかならないが、承諾(しょうだく)の返事をした。

荷車にミシンを積み、また書類をつめた箱を積みして、まだまだあどけなさの残る女生徒たちが、何度も運んで来た。忘れもしない8月5日の日も、女 生徒たちは暑い日照りのもと、荷車のかじ棒を持ち、別の子は車のあとを押して、息をはずませ、汗で泣いたような顔をして荷物を運び込んで来た。少女たち に、冷たい井戸水をくんであげるのが、当時としてはせめてものもてなしであったが、水を飲んで、またふき出す汗をふく幼い姿を見ると、せつなさがこみあげ てきたものだった。少しでも冷たい水をと思うと、くみ置きより、今、井戸からくみ上げたものをと思うと、そこに列ができて、水を待っていた。

8月6日の朝、戸坂では竹やりの訓練が行われるふれがまわっていた。この日以前にも、小学校で竹やり訓練についての話を聞いたりしてはいたが、実際の戸坂での訓練はこの朝が初めてであった。前日の5日に青竹の手ごろなのを切り先をとがらせ用意しておいた。

夏の朝は早いが、まだ明けきってはいなかった。薄明かりの中を出かけていった。出かけるとき、家屋疎開の後片付けに動員されている次女(女学校1年生)を起こし、座敷まで出て来るのを見て、千足(せんぞく)の指定された場所(旧戸坂出張所付近)へ急いだ。この訓練が終わったときは太陽がすでに東の 山を離れていたので、7時を過ぎていたろう。家に帰ってみると、次女はすでに出かけていた。用意してやった朝食はとらずに、弁当だけを持って行っていた。 長女も女学校から動員されていたが、この6日の日はたまたま休みの日で家にいた。長女の言うのには次女が「お姉ちゃん行くよ」と元気な声で言ったのが、最後のことばだったと・・・あとから聞いた。

朝食後、これも割当てられて作った「ヒマ」の実を、南向きの縁側に持ってきて皮を取っていた時だ。昔の家屋は縁側といっても高く作業台として恰好 (かっこう) のもので、私は立った姿勢で、熟してそのトゲがやや指にからむヒマの皮を取っていたが、手元を、座敷を、一瞬光りが走った気がした。光ったの か、光らなかったのかと念おしをされたら、そう、確かに光ったが、光ったことが何を意味するか知るよしもない。「光った!」と瞬間の感覚がとらえただけ だったが・・・。気がついた時は立っていたところとは別の、その立っていた位置とは庭に出た側に倒れていたのである。ごう音と同時に飛ばされたものか、何 もわからず、やっと立ち上がって周囲を見た。日は明るく、庭の方には何事もない。その時、前方の山の上に淡いオレンジ色の雲が、朝焼けや夕焼け雲の色では ない明るい午前の光に輝くキラキラ色の雲が上がっていく。

広島の町に何かがあったと思う。座敷の外より暗い所に目がなれてみると、表座敷の隅のミシンが一方の隅にまで移って倒れ、奥座敷の天井(てんじょ う)が8畳の広さのままたれさがっていた。家の中はほこりと土とでよく見通せなくなっていた。台所は食器棚が中央に飛び出し、そのまま立っていたが、戸は はずれ食器はその多くが壊れていた。裏廊下(ろうか)の戸はほとんど北側に倒れ足の踏み場もない。それから10時半までの時間をどう行動したかは正確でな い。しかし10時半<あの日のあの三次(みよし)方面に行く汽車が定時に運転されていれば・・・おおよその時間は家の外まわりの仕事をしている時は列車で知っていた>までにあったことは次の通りである。

  1. 主人が次女を探しに広島に出かけたこと。<学徒動員で中島町(なかじまちょう)の家屋疎開の後片付けに行っていたため>
  2. 家庭の食用油を、戸坂小学校の校庭まで持って行くようにとの連絡を受けて、小学校までの道を往復したこと。

この食用油を持って、小学校へ行くため、農協付近まで出た時は、すでに中山(なかやま)の方からの道を、ケガ人やヤケドを受けたと思われる人が歩 いていた。小学校へ行くと校舎をはみ出した負傷者で校庭もふさがり始めていた。その方々は一様に「水、水・・・」と、水を要求した。横になっている方は足 を、しゃがんでいる方はモンペをつかみながら「水」「水」という。

むごい姿だ。衣服の破れやよごれをうんぬんするむごさではない。人間のからだそのものが、こわされている姿、姿。だれが衣服をつけずに町へ出よ う。しかしこの人たちのからだには衣服の一部が、わずかに垂れさがったり、付着したりしているだけで、ほぼ裸体(らたい)に近いままの姿であり、その皮膚 が人間の原型が確かめにくいさまでそこにいるのだ。それにしても暑い日差しの下では・・・そしてその方々の言うことばは、「水」今にして思えば、私はあの 庭に倒れてからのちはすっかり動転してしまっていたようだ。

次女を探しに出かけた主人は「工兵(こうへい)橋から向うへは行けない。」と1度ひきかえし、「中山(なかやま)の方から行こう」と再び出かける。しかし、この方面からも町へは入れなかったそうだ。

午後も、あるいは半ばを過ぎていたろう。上半身、特に両腕のヤケドのひどい人が、ひょっこり門から入って来た。その声は弱く疲れのひどさが感じら れた。「自分はあの山を越してやっと、ここまで来れたことが、どう考えても不思議です。しかし、今日、広島がやられたのは新兵器に違いありません。」繰り 返しそういい、「腹が減っているのですが・・・。」と、空腹を訴えられるので、ごはんをおにぎりにしてさしあげた。

もう1日が終わろうとし始めるのに、次女は帰って来ない。庭に立っていてもどうにもならないのに庭に立っている。門の前の道で、声がするので出て みると、救護の方が負傷した少女を戸板に載せて私方に来られた。安田女学校の寄宿舎の生徒さんであった。次いで安田女学校の先生方や校長先生も避難(ひなん)して来られた。兵隊も何名か割り当てられ、家の中は負傷された方たちでいっぱいになった。

寄宿舎からの生徒さんたちは、両親が連れに来られた。何日かの後、兵隊さんたちは1箇所に収容されることになり、そこへ行かれた。安田女学校の先生方は五日市(いつかいち)の病院で手当を受けられることになった。すでに8月も終わろうとしていた。

翌日も次女は帰らない。探しに出かけたが見つからない。わずかのことばを頼りに、方々をたずねたが、わからない。翌々日も帰らない。・・・今日もまだ帰らない。

あの日、あの原子雲は、広島の町の裏側となる山麓(さんろく)から見ても、高く、高く上った。上空までも風のない日であったのか、午後には、その雲が広く空に広がった。そして8月6日は暮れた。あの雲が、広島の死没者の墓標(ぼひょう)であったのだろうか。

登 小秀(のぼりこひで) 記