村人の手記・証言/戸坂村の人たち

5.我が家での救援活動

戸坂(へさか)では、6日朝、8時過ぎ、ピカッ!と光り、と同時、ドーンという音がした。気が付いてみると、天井(てんじょう)はめくれ、ガラス、障子(しょうじ)がメチャメチャになり、瓦は上がると言うように、家がメチャメチャになっていた。10時ごろになると前の道路を、ヤケドの火ぶくれがたれ下がり、手を下げることができず、上げたままの人の列が続いた。アカチンをつけていたのか、上半身が真赤だったが、そのうち、赤チンもなくなったのか、今度は白い薬をつけた人の列が続いた。(奥様の話)

当時、在宅営団(ざいたくえいだん)に勤めており、前日は、甲田町(こうだちょう)に出張に行っていた。

8日朝、帰るため、汽車に乗って広島へ向かっていたら、矢口(やぐち)の駅で、広島から来た汽車と擦れ違い、乗っている人の様子を見て驚いた。

戸坂駅に着いてみると、駅がガタガタになっていた。家に帰ってみると、家もメチャメチャで、後片付けをした時、かます3杯のガラスなどの破片があった。

当時、有事(ゆうじ)には戸坂の民家は軍人さんを収容するということが、役場から言われていたので、6日にはもう8人の軍人さんの被爆者が来た。当時組長だったので、1番に収容したが、後、どんどん来られるので、他の家にも割り当てた。

母(昭和21年に亡くなった)が、特殊なヤケドによく効く薬を作り、玉のような火ぶくれがたれ下がり、ウジのわいた病人の背中へ、その薬を手でつけてあげていた。また、梅茶や、重湯(おもゆ)なども、どんどん飲ませていた。病人はにおいがひどく、座敷に膿(うみ)の汁がたれていた。3〜4日して、その人たちが帰られる時、着る物がなかったので家のシャツやねまきを着せてあげた。

近くに、石津さんのやっていた、蚕(かいこ)の養蚕(ようさん)工場があったが、そこには一般の人が入っていた。7日に憲兵(けんぺい)の分憲所が、我家にできた。道路ばたで、1番便利がよさそうだったので選んだと言うことだった。当時、8畳に病人、6畳と玄関(げんかん)に憲兵がいた。

各家・学校にいる病人が次々と亡くなってゆき、死体があちこちに転がっていた。土葬(どそう)にしてもよいかと憲兵に相談したが、火葬(かそう)がよいとのことで、タンカで丘へ運び、各家からまきを集めて火葬にした。盆前の墓参りに行くのに、死体が道に並べてあり、それをまたいで行った。身内の者が探しに来た時、わかるように並べてあったのだろう。また、学校の床(ゆか)の下からも多くの死体がでてきた。床の下が涼しいので、皆、下へ入ったまま亡くなったのだろう。

終戦になって憲兵がひきあげた後、軍から納屋(なや)にあずかっていた毛布(もうふ)、しょう油、くつを、少しずつ取りに来て、いつのまにかなくなった。

21年の夏、家にいた軍人さんの1人、杉原さんという方とそのお母さんが、お世話になったとお礼にこられた。当時、杉原さんは、顔も焼けただれていたので、1年後、美しくなられた顔を見ても、こちらは全くわからなかったが杉原さんは家族の1人1人をよく覚えておられた。当時、よく看病していた母が亡くなったことを告げると、とても残念がられた。

寺本 清人(きよと) 話