村人の手記・証言/避難してきた被爆者

3.被爆者の母

冊子制作、感謝いたします。

先日は、館長様より、お便りを入手、永年の苦労しました被爆生活を改めて思い出す者の1人でございます。よくこそお尋ねくださいました。お礼を申し上げます。戸坂(へさか)村は今は立派な町になられ、いよいよとご隆盛(りゅうせい)、ご発展のこととおよろこび申しあげます。

実は、本年(51年)(1976)5月4日午前8時30分、愚息(ぐそく)道夫こと、他界いたし、いまだ涙の明け暮れでございますので、無学な母親ではございますが、あの子の被爆以来、生活をともにしましたので、ご参考にはなりませんでしょうと思いますが、一筆(ひとふで)記させていただきます。

ご近所からは被爆者と異状な目で見られ、難儀(なんぎ)をいたして30年をすぎましたが、戦争の傷痍軍人(しょういぐんじん) と同様に見られておりますが、原爆にあいました体は、骨の中まで痛んでおりました。何をしましてもすぐに疲れてこてこてになり、汗をいっぱいに出して、それは大変だろうと思っておりました。

背中と両腕は鳥の皮をむいたようになり、顔にはひたいに2寸(すん)角くらいの爆風がくっつき、しばらく治りませんでした。治療の結果はキラキラと跡が光っていました。耳は両耳とも上部半分が失われて、マスクもかけられないようになりました。原爆の悪臭が強いので、多人数の人中へは出られぬ状態がしばらく続きました。

最近は、やや、跡がうすくなっておりました。原爆にさえあわなければ、今、ひとたび立ち直れるのであったのにと過ぎし事が悔やまれてなりません。残された5人の子どもの前途は暗たんたるものがあります。死亡したら国からの援助もなく、老いた者は収入は無く、いたくいたく心痛いたしております。

今1人、戦友の杉山茂久様も2月に他界され、ともに励まし合った戦友が、同じ年に亡くなるとは意外でした。杉山様も戸坂村でお世話になったよう、聞いております。

身勝手な事ばかり書いて恐縮です。手紙を書いても涙が出まして、どんな事が書けたか意が通じないと思いましたが、筆のむくままにしるしてご返事といたします。
くれぐれも御身ご大切にお祈り申しあげます。

かしこ

七月十七日
戸坂公民館長様
杉原徳恵

追伸
原爆投下後、1ヶ月間くらいは顔ははれて、口は開かず、ご飯は1粒1粒をはさんで口に入れ、お汁物は、1番小さいスプーンで流し込む様にして食事をさせましたので、大変時間がかかりました。

杉原 徳恵(のりえ) 記





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