村人の手記・証言/広島第一陸軍病院戸坂分院関係者

2.凄惨な夏

泣き叫ぶ小児4名を連れて、牛田(うした)水源地あたりより、上流へと逃げた。なんとかヤケドの手当てをしてやりたいのと恐怖からの逃避(とうひ)のみで、不動院(ふどういん)の本堂に子どもを上げ、朝鮮人のものすごいヤケド人10名近くを哀号(あいごー) 々々と叫ぶのも不動院に上げ、本堂の畳の上に寝かせた。

寺の奥様らしいのが種油 (たねあぶら)を持って来て傷の上に塗ってくれているのを見て、私も携帯用のアカチンを出して塗って処置をしている時に空は急に暗くなり大粒の真黒な雨が激しく降ってきた。

激しい雨が晴れた時分から、カッパ頭の罹災(りさい)軍人が続々と、幽鬼(ゆうき)のごとくに押し寄せて来た。大事にしっかりと銃を握ったボロボロの肉塊(にくかい)だ。私は戸坂(へさか) 陸軍病院が近いぞ、戸坂小学校に行けと大声で知らしてやった。

時計も爆風 (ばくふう)で紛失(ふんしつ)したため、時刻を知る事は不可能であったが、どのくらい時間が経過したか。太田川(おおたがわ)の流れを婦人従軍歌 (じゅうぐんか)を歌唱しつつ、傷ついた友だちと肩を組みつつ、白衣(びゃくい)の4〜50名の陸看養成所の生徒が猛火(もうか)から逃れて来たのを忘れる事ができません。

何千人のヤケドの人が通ったかわかりません。時間がどのくらい経過したかわかりませんが、リヤカーを引いた顔見知りの兵隊が私の前まで来て車を置き、「オイこれを頼む」と言いましたので誰かと尋ねますと、加納(かのう) 曹長 (そうちょう)だと答えましたので、かぶっていたムシロをはね上げて「傷はどうですか」と尋ねると幸いにも傷は無くて、爆風と同時に2階建ての兵舎(旧幼年学校講堂)がグラグラと崩壊、2階から真暗な底に転落した。わずかの光を頼りにはい上がると、すでに火の海で、はいはいやっと逃れたが、腰が上らぬのでリヤカーで運んでもらったと、手短かに話された。

私には大恩ある曹長にて、聞くと同時に車をひいて、戸坂小学校に向かった。ゾロゾロと歩く人々を追い越して学校に到着したが、すでに大勢の被災者で大混雑していた。完成したばかりの大防空壕に曹長を寝かせて、私の勤務である薬室に行くと、2年来の同じ勤務者・前岡調剤(ちょうざい)助手が肩の辺りを傷つけて手当てをしていた。私は無意識に「そのくらいの傷が何だ」と大声で叱った。

同期兵の高木兵長が、指を握ってやって来た。大野浦(おおのうら)病院より、昨日広島に出張して駅前で被爆したが、逃れてここまで来たと話をして、駅付近の凄惨な姿、白島(はくしま)辺りで兵隊さん助けてと建物に敷かれた子どもを救ってと頼まれたのを振り切って来たと語ったと思う。

10時ごろか、亀山 (かめやま)陸軍病院に薬品受領に行ってくれとの事で、トラックに同乗して出発した。受領のわずかの間に新型爆弾が田の中に落ちて、近所の人は避難している。

トタン、新聞紙、紙幣(しへい)などが降って来たと話をしていた。
薬品受領から戸坂に帰ってか、行く前か判然(はんぜん)としないが、牛田の日通寺(にっつうじ)に食用油ドラム缶をとりにリヤカーをひいて行き、持ち帰り、バケツに種油(たねあぶら)を移して亜鉛華 (あえんか)を投げこみ、何杯も作ってヤケドに塗布(とふ)するように看護婦に渡した。校庭の寝られる所には被災者が充満して、カンカン照りの砂の上にも寝ていて、「水をくれ、水をくれ」と、口々に訴えた。裏の炊飯所の水は限度で、近所の農家から水を運んでいるが到底間に合わないので、校庭の手押しポンプで金気(かなけ)水をくみ上げて重傷者に与えた。冷たい水を飲み、満足感から絶命(ぜつめい)する者もあった。

全身ヤケドの大柄な兵がそろそろと歩いていたのが柱が倒れるように倒れ、倒れた下にも重傷者がいて、ともに絶命する等、凄惨さは形容できない。何時のころからか応援の兵が来て、息のある者の隊名、出身地等を調査もしていた。

近所の農協からか、かき集めた畳表(たたみおもて)が校庭に張られた。ようやく涼風が吹き始めたが、校庭の暑気(しょき)は一向に去らなかった。動員されていた女学生がヤケドにて、身動き出来ず、「兵隊さんおしっこ」と言った。その尿を取る物すら無い。焼けただれた体に尿の染(し)みるのを想像しながら、逃げ去った悲しさは忘れられない。

こうして夜を徹して、教室に校庭に満ち溢れた患者の看護にあたった。

第二日

 

未明(みめい)、戸坂小学校を出発して、基町 (もとまち)の陸軍病院にたどり着いた。途中、レンガべいの師団経理 (しだんけいり)が焼け残る外、見渡す限りの焼け跡にて、毎日通った道が判然としない。幸いにも、私のいた病院には広島城の台場のような物(石垣)があったので、見付ける事ができた。正面の門衛(もんえい)には数名の兵の屍(しかばね)が転がっていた中に、明らかに同年兵の姿があったが、失念して姓が浮ばない。本館入口にも、3年間の顔見知りの女給仕 (きゅうじ)の、炎にアブられたイモ虫のような姿があった。

輜重(しちょう)隊砲兵隊かの馬が方々に倒れ、無数の死体と入り乱れていた。病院裏手の溝には、経理少佐 (しょうさ)が汚れの中に吹き飛ばされて死なれ、権威に満ちた昨日までの姿が浮ぶ。生き残りの豚が溝の隅にじっと3匹固まっていた。

私は薬室の壕より酒精 (しゅせい)をさがし出し、炊事の壕よりジャム缶をさがし、飯盒 (はんごう)にかきまぜ、次第に集って来た7〜8名の兵隊たちに飲ませ、生気を取り戻した。古参者としてまず何をなすべきかと考え、半数は生存者の救助、半数は死体の数を数えさした。生存者は壕の中に忘れ物を取りに行き一命を得た看護婦、爆風で吹き飛ばされ用水池に落ちて助かった酒保 (しゅほ)の女性など、7〜8名いたと記憶します。骨だけの死体は約800あったと記憶しています。

しばらくして、師団司令部伝令 (でんれい)が、陸軍病院の状態を報告に司令部に来いとの事で、大本営 (だいほんえい)の在った所と記憶していますが行き、「御真影 (ごしんえい)は見付かりません。生存者10名、死者800で現在将校はおりません」と大佐 (たいさ) 参謀 (さんぼう)に報告。終わって肩口を負傷しておられたのをアカチンで消毒し、リバガーゼは負けるから張るなと言われました。西部二部隊外各隊からも報告に来ていましたが、似たような状態で想像もできない壊滅状態でした。

金銀の参謀肩章 (けんしょう)を付けた陸海の高級将校が、真剣に新型爆弾について意見の交換をしておられ、師団参謀は空襲 (くうしゅう)警報(けいほう)を解除したが、再び敵機 (てっき)が引き返して来たとの知らせで、空襲警報を発令したが、放送局の知らせる前に爆弾投下されたとの事でした。

病院に帰りますと米田(よねだ)衛生少佐(しょうさ)が来ておられ、衛兵所の大金庫を開けておられ、重要書類揃、預貯金通帳等は無事でした。

午後も大分経過して、輜重隊の河岸より工兵隊鉄舟 (てっせん)に患者を乗せて、寺町(てらまち)辺りをこいで上って行きました。時折、魚が腹を見せているのが舟の音で泳いで逃げるのが見えましたが、背はヤケドをしているのがよく見えました。河につけてある材木のここかしこに、死体が浮んでいました。牛田(うした)の辺りまで来まして河が狭くなりましたので、大芝(おおしば)に舟を着けるとかの事であったので下舟しましたら、日没後であったので間違えて中洲(なかす)におりていまして、その夜は中州で仮眠(かみん)しました。

三日目以後

夜がようやく白(しら)んだころ、周囲を見ますと、死体が水打際(みずうちぎわ)にあり、そこから逃れて川上に歩きましたが満潮 (まんちょう)にて牛田(うした)の岸に行けそうにもありませんので携帯品(けいたいひん)を一括(いっかつ)して、大事に持っていた酒精入りジャムを食べて泳いで渡り、戸坂に帰りつきました。3日ぶりに味噌汁と握り飯を落ち着いて食べて平静になりました。

充満した被災者の整理で、可部(かべ))・亀山(かめやま)方面に患者が一部転送されたように記憶しますが、いまだ校庭とも大勢(おおぜい)寝ていたように思います。

私は薬室勤務が主で、夜の余暇(よか)を見付けて患者の看病に当たったため、状況を正確には掴んでいませんが、夜間見回って数名の人の遺言(ゆいごん)を書き取りました。意識は死の瞬間まで確かで、家族やら世話になった人の名前をあげて、礼を厚く述べられました。これも薬室の反古紙(ほごし)に書き取った物ですので、大事に保管しておりましたが、残念ながらすべて水害で紛失しました。

岡山から衛生兵が応援に来て看護に当たってくれましたが、いつ引揚げたか記憶ありませんが、ソ連の参戦を校庭で整列して聞かされて背筋が硬直した時には、一緒に整列していたように記憶します。

看護婦は近所に民宿し、衛生兵は何処で生活したかつまびらかでありませんが、私は混乱していた期間中、薬室で仮眠しました。

若い兵たちは、死亡した屍(しかばね)の整理を堤防(ていぼう)で何十体も積み重ねて重油 (じゅうゆ)で毎日焼いていると話し合っていました。

4〜5日経過して、赤痢 (せきり)の病状が発生して隔離(かくり)病舎に大勢移された様子で、淡い血液便で原爆病赤痢と誤った様子で、私がリヤカーでお連れした加納曹長も隔離病舎で同様亡くなりました。

また、患者の中に南方よりの転送された (らい)患者もいまして、軍医同志で鳩首(きゅうしゅ)協議して処理されました。私は最古参兵で薬室勤務であったため、将校とも気軽く付き合っていましたため立会いましたが、諦(あきら)めきった患者の目を思い出します。

降伏(こうふく)の詔勅 (しょうちょく)後、三八式歩兵銃菊の紋をけずり防空壕に埋めました。一度この銃を以って、毛布を盗みに来た人々を追っ払うために稲田目掛けて5発射ち込みましたが、銃声に怯(おび)えて近所の村人たちが進駐軍 (しんちゅうぐん)が来たと言って逃げたと後日語ってくれました。

大洪水 (こうずい)にも遭い、居残っていた患者を連れて裏山に避難しました。

終戦直後というよりも降伏(こうふく)直後、看護婦には青酸加里 (せいさんカリ)の包みを渡しました。兵隊は手榴弾 (しゅりゅうだん)を1個ずつ持ちましたが、後に平和進駐であったので、太田川で鮎捕りに使用いたしました。

渡辺 良太郎(りょうたろう)(当時、陸軍衛生上等兵) 記





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