伊藤 正雄 Masao Ito

Never ForgetからNever Againへ

4. 広島市のピースボランティアに

退職後、通っていた三滝グリーンチャペルの牧師が、広島市のピースボランティア募集記事を持ってこられ、「退職したら毎日が日曜日でしょう。伊藤さんは被爆者なんだから、こういうのはどうですか?」と見せてくださいました。私はすぐに広島市平和記念資料館を訪ねました。すると係の人に、「伊藤さんは被爆者ですから、被爆証言をされませんか?」と言われました。しかし「被爆者と言っても、被爆時は4歳半でしたからほとんど記憶がありません。」と言ってお断りし、資料館や平和公園のガイドをするピースボランティアに応募しました。約1年間、月に一度資料館で、被爆の実相や資料館の展示品の説明を学んだり、被爆者のビデオを見たりといった講習を受けました。そして2007年4月から現在に至るまで、木曜日担当のボランティアとして活動しています。

しかし、当初は一つ心に引っかかることがありました。それは、原爆死没者慰霊碑の「安らかにお眠り下さい 過ちは繰り返しませぬから」という碑文でした。当時の私は、原爆を落としたアメリカに敵討ちしない限り、被爆者は決して安らかに眠れないじゃないかと、苦々しい思いで碑文を見ていました。「悔しいでしょう 敵討ちをしてあげるから 安らかにお眠りください」と書くべきではないかと思っていたのです。

ところがある日、岩国に駐留している米軍兵士達のグループが資料館にやって来ました。館内を見学した後、彼らの中の何人かが、「今まで、原爆を落としたお陰で早く戦争を終わらせることができ、アメリカの若者100万人の命を失わずにすんだと教えられ、自分達もそう信じていました。でも、資料館を見て、自分の祖国がこんなにもむごい爆弾を落としたことを初めて知りました。」と涙を流しながら言ってくれたのです。アメリカ人の中にも原爆を落としたことを申し訳なく思い、涙を流すような人達がいることを知りました。その後も何人ものアメリカ人に同じようなことを言われました。

また原爆投下後、被爆者のために尽力してくださったアメリカ人達もおられました。ノーマン・カズンズ氏は、原爆孤児のための精神養子運動をされました。彼はまた原爆乙女と呼ばれた顔にケロイドを負った若い女性達をアメリカに連れて行き、治療を受けさせるためにも尽力されました。原爆で家を失った被爆者のために、自ら広島に通い21軒の家を建ててくださったフロイド・シュモー氏もおられます。被爆者とは直接関係はありませんが、廿日市市にある児童養護施設「光の園摂理の家」には、よく米軍岩国基地の兵士達がボランティアに訪れています。

アメリカで被爆証言をしたある被爆者が、滞在した家庭でとてもよくしてもらい、心に変化があったと言われていたことを思い出しました。かつて敵国であった日本人に対し、愛を持って接してくれているアメリカ人の姿を見て、それまで原爆で命を奪われた被爆者の無念を晴らすには、報復しかないと考えていた私の心にも徐々に変化が生まれました。そして、ようやく入院中に腹を立てて壁に投げつけた聖書の言葉「汝の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」の意味が分かったような気がしました。報復の連鎖では決して平和は訪れないのです。私が本当に憎むべきはアメリカ人ではなく、戦争そのものなのではないかと気づいたのです。戦争がなければ核兵器を使われることもなかったのです。Never forget (決して忘れない)ではなく、 Never again(二度と繰り返さない)です。

2012年から、広島市が被爆者の伝承者を養成するプロジェクトを開始しました。被爆者が高齢化し、体験を語れる人が少なくなってきたことから、被爆者の体験を聞き、彼らに代わって体験を継承してくれる伝承者を養成するプロジェクトです。私は松原美代子さんと新井俊一郎さんの伝承者になりました。現在は自分の記憶に残る被爆体験と松原さんと新井さんの被爆体験をお話しています。

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