濵井 德三 Tokuso Hamai

失った命は二度とかえらない

4. 戦後の暮らし

8月15日に、役場から正午に大切な放送があるという知らせが来て、近所の人たちや叔母の家族がみんなラジオの前に座って待っていました。ラジオは当時貴重品で、蓄音機や母の着物などと共に父が宮内に疎開させていました。正午になると、それまで止まっていた電気が流れ、ラジオが鳴り出しました。ただガーガーという雑音がひどく何を言っているのか私には分かりませんでした。周りにいた大人達が「日本は負けたで。」「アメリカ人が入ってきたら、日本の女は何されるか分からんな。」などと話している声が耳に入ってきました。

叔父は終戦の報を聞いて、叔母がお産のために身を寄せていた実家の隣人の納屋を借りて引っ越してきました。叔父は鍛治屋町(現・中区本川町、爆心地から約400メートル)に家があり、そこで理髪店をしていましたが、たまたま前日から防衛招集で草津におり無事でした。そして私を叔母の親族から引き取ってくれました。叔父はたいへん優しい人で、父にはよく叱られていましたが、叔父からは一度も叱られた記憶がありません。とてもかわいがってくれました。

学校へは毎日行きましたが、授業と呼べるものが始まったのは10月か11月ごろだったと思います。教室は被爆者が寝かされていましたので、学校の横に防空壕として掘られていた横穴で、毎日先生の話を少し聞くだけで終わっていました。一つの穴に50人位は入れる大きな横穴で、3つありました。そして教室が一つずつ空く度に、生徒達は校舎へ戻って行きました。6年生になって初めて正規の男の先生が戻ってきました。それまで先生と言えば女の先生か役場などから派遣された代用教員はかりでした。

小学校を卒業する前に、先生から成績がいいから修道中学に行ったらどうかと言われました。修道というのは私立の中高一貫校です。叔父は高校までは出してやるが、公立の学校にしてくれと言いました。叔父には子供が3人いましたが、私を分け隔てせず育ててくれていました。私は小学校に併設されていた高等科に進学しました。その後教育制度が6-3-3制に変わり、高等科は廃止されました。私は中学3年生から七尾中学校に編入しました。ですから私は七尾中学校の第一期卒業生になります。その後廿日市高校に入りました。当時、中学校から高校へ進学する人は2~3割しかいませんでした。そのことで叔母からはずいぶん嫌なことも言われました。戦後の貧しい生活の中、自分の子供3人に加えて私を育てなければならなかったことは、叔母にとっては重荷だったんだろうと思います。また叔母が入学式や卒業式に母の着物を着てくることは、とてもしゃくに触ることでした。高校ではあまり勉強をした記憶はありません。よく広島市内まで映画を見にいったものです。

戦後、ハワイの親戚が私を引き取りたいと言ってきたそうですが、叔父は自分が育てると断ったそうです。心配した親戚からは、長い間、靴や服、米や砂糖、お菓子などが送られてきました。どういうわけか荷物の箱はいつも穴が空いていて、途中で誰かが中の物を失敬していたのでしょう。

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