梶本 淑子 Yoshiko Kajimoto

伝えなければ過ちは繰り返される

3. 避難、ひたすら北へ

私たちが働いていた建物には、同じクラスからの約30人がいたはずですが、気づいた時には5~6人だけが外に出ていました。みんな真っ黒で、体中血まみれでした。私たちはガレキの隙間を見つけ、そこで普段訓練を受けていた要領で、お互いに傷の手当てをし合いました。私は着ていた服の袖を引きちぎり、ケガをしていた文子さんの腕に包帯代わりに巻いてあげました。より心臓に近いところを縛ることや、肘や膝など関節があるところへの包帯の巻き方など、学校の近くにあった陸軍病院で応急手当の訓練を受けていたのです。また火傷をした人には油を塗ってあげました。油は先生がどこかから探して持ってきてくれていました。

柳田さんというクラスメートが、
「広島がなくなってしまった!飛行機も飛んでなかったよね?」
と突然言いました。そういえば空襲警報もなかったし、アメリカの飛行機も見てないのに、どうしてこんなことになってしまったんだろうと不思議でした。最初、私は工場が爆撃されたものとばかり思っていましたが、町の方を見ると、何もなくなってしまっていたのです。

その後、ガレキの中にまだ級友達が取り残されていることを思い出し、工場の建物の方へ戻りました。ガレキの中からは、「助けて~。」という声があちこちから聞こえました。一人ずつガレキを取り除きながら引きずり出しました。途中からは近所の人たちも手伝いに来てくれ、結局私たちのクラスの全員無事に出ることができました。25~26人は助けたと思います。まだ火が回ってなかったのが幸いしました。

動ける人で、近くに自宅や親戚の家がある人、また親が探しに来てくれた人は一人二人と帰って行きました。それでも20人ほどは残っていました。当時の学生は真面目なもので、その場を離れる時には先生のところまで行って、場を離れる許可を貰っていました。昼頃には私たちがいた工場のガレキにも火が迫ってくるのが見えました。残された私たちは、空襲などがあった時に避難するようにと指定されていた大芝公園に移ることになりました。歩けない人も数人いました。先生がどこからか担架を2~3台探してきてくれ、歩ける者が4人一組になり、歩けない級友達を乗せて何度も大芝公園まで往復しました。途中、死体がゴロゴロ転がっていて、とにかく踏まないようにまたぎながら進むのですが、死体から垂れている皮膚までは避けきれず、ときどき踏んでしまうのです。私は、履いていた下駄はすでになく裸足でした。そのぬるっとした感触が気持ち悪かったことを今でも忘れられません。

しばらく大芝公園にいて、再び動けない人を4人一組で担架に載せ、何度か往復しながら一本道を、死体をまたぎながら熊野神社まで行きました。そこも避難してきた人々でいっぱいでした。次に目指したのはどこかの町の公民館でした。(地名は忘れてしまいました)ようやく目指す公民館に着いても、すでに大勢のケガ人で私たちが入る余地もありませんでした。仕方なく、近くの川辺にある竹藪で夜を過ごすことになりました。その竹藪にも大勢の負傷した人たちが横たわっていました。火傷を負った学生が、傷口が乾くと痛がるので、元気がある者が何度も公民館に戻って油を貰い、傷口に塗ってあげました。夜、そこから広島の空を見上げると、空は真っ赤に染まっていました。

次の朝もまた北へ北へと担架を担ぎながら歩きました。二日目はどこかの村で数軒の民家に分かれて泊まることになりました。それがどこだったのか思い出すこともできません。もしかしたら何か食べるものをいただいたのかもしれませんが、それすら覚えていないのです。三日目もひたすら一本道を北へ向かって歩きました。私たちがいた工場から約10キロ離れた安(現在の広島市安佐南区)にある目薬屋さんでおにぎりを貰い、休ませていただきました。きれいな水が流れる川が見渡せる広い縁側に、みんながずらっと並んで食べたことを覚えています。そのおにぎりは、どういうわけか真っ黒で、私には被爆後初めて食べた食べ物として記憶に残っています。級友の中に一人、いい家のお嬢さんがいて、「こんな黒いおにぎりは食べられない!」と、川に投げ捨てた人がいました。

そこに己斐は焼けていないという連絡がありました。その当時の伝達手段であった町の掲示板に公報されたのか、その目薬屋に電話があったのかは分かりません。己斐に住む私と、己斐と同じ方角の草津に家がある主田さんが、一緒に来た道を引き返すことになりました。どこまで歩いたか分かりませんが、途中、私を探していた父と出会いました。父は私たち二人を抱きしめて、
「よう生きとった! よう生きとった!」
と言ってくれました。私が、
「家族はみんな元気?」
と聞くと、父はなぜか中途半端な返事しかしませんでした。後になって、一緒にいた主田さんのことを気遣って、そのような返事をしたのではないかと気づきました。私の家族は全員が無事だったのですが、多くの家庭で家族の誰か彼かが亡くなられていたのです。

家にたどり着くまで、ほんとに数え切れないほどの死体を見ました。そのころになると死体を見ても、何も感じなくなっていました。道にも、川の中にも人間や馬などたくさん死んでいました。ただ一つだけ、今でも忘れられない光景があります。横川駅と西広島駅のちょうど中間あたりだったと思います。すでに亡くなっている母親のおっぱいを赤ちゃんが必死で吸っていたのです。川に浮いた死体はまるで風船みたいに膨れ上がり、目と鼻を付けた人形のようで、とうてい人間には見えませんでした。満潮になるとそれらの死体が上がってきて川一面を埋めつくし、引き潮になると海に下っていくのです。一週間くらいはそんな状態を繰り返していたと聞きました。

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