梶本 淑子 Yoshiko Kajimoto

伝えなければ過ちは繰り返される

4. 自宅

原爆が投下された時、二番目の弟と三番目の弟は居間の畳の上で絵を描いて遊んでいたそうです。爆風でタンスが倒れてきて、二番目の弟は下敷きになりましたが、たいしたケガもなく無事でした。平屋の自宅は屋根が吹き飛び、被爆後降ってきた黒い雨で屋内の物もすべて濡れてしまったそうです。私が帰宅した時には、畳は2枚ずつお互いに立てかけて干してありました。爆風で畳が宙に浮いたり、離れたところにあるトイレの外にかけてあったタオルが、飛んだ畳と畳の間に挟まっていたりで、家族もたいへん驚いたと話してくれました。

原爆投下から3日目の夕方、私はようやく帰宅しました。主田さんとは己斐で分かれました。屋根のない自宅で2泊か3泊したと思います。真っ暗になると空には満天の星が見えました。それまで全く気づかなかったのですが、右腕にはガラス片がいくつか刺さっていました。その傷にはウジがわいていて、祖母がそれを一匹ずつ取ってくれました。このガラス片は秋になって医者に自宅に来てもらい抜いてもらいました。その時ガラス片が7つ刺さっていたと聞きました。麻酔薬も消毒薬もない時です。看護婦と母と祖母が私を押さえつけ、深く刺さったままになっていたガラスを抜いていくのです。またガレキから足を引き出すときに負ったと思われますが、右足には裂傷がありました。

我が家には、医者の親戚から貰っていた赤チンが小瓶一本分ほどあったのですが、私が帰る前に、家に逃げてこられていた被爆者たちのケガの手当をするために、母が使ってしまっていたのです。そのことで父と母が喧嘩をしていました。帰宅して3日目くらいから歯茎から大量に出血し始めました。寝ている時も出血は止まらず、チリ紙やタオルでは間に合わないというので、枕元には母が洗面器を置いてくれていました。出血は8月末まで続きました。そのためひどい貧血になり、めまいがして起き上がることもできませんでした。父がどこからか牛の生血やレバーを手に入れてきて、私に食べさせようとしたのですが、私はどうしても気持ちが悪くて食べることができませんでした。

自宅ではとてもゆっくり体を休めることはできなかったため、3日目か4日目に、父に連れられて自宅から歩いて20分ほど山の方に上がった軍人谷(今の広島市西区己斐東)で植木屋を営んでいた母の実家に移りました。その家には祖父母の他、同居していた叔父家族4人と、市内から疎開してきていた叔母家族6人がすでにおり、私たち家族は、出産をするために建てられていた産所に住むことになりました。父は崩れた屋根を修理するためと、留守にすると不用心なので毎日自宅で寝泊まりしていました。私は祖父母の家に着くなり寝込んでしまい、8月の末までは起き上がることもできませんでした。

父は私を無事に見つけ出した日の翌日から毎日近くの己斐小学校の校庭で死体を焼く作業に出かけていました。一週間くらいでそれは終わりましたが、父が戻ってきた時に服についた臭いはとても口で言い表せるものではありませんでした。1週間で約700体の死体を焼いたそうです。当初お骨は小学校の校庭に埋められました。後に掘り起こされ、身元が分からないお骨は平和公園の供養塔に納められました。

8月15日の玉音放送は、正午に祖父母の家で近所の人たちも集まって聞きました。ガーガーと雑音がひどく、意味が分かりませんでした。子供達は聞こえた「耐えがたきを耐え、しのびがたきをしのび~。」というお言葉から、苦しくてももっと耐えて戦いぬけという意味だと解釈し、これからも頑張らなければと心を引き締めていました。ところが夕方になって父が戻り、戦争は終わったんだと教えてくれました。それを聞いて私は張り詰めていた緊張が一気に緩み、こんなに簡単に戦争って終われるものなのかと拍子抜けしました。こんなに簡単なら、なぜもっと早くやめてくれなかったんだろうか、一日早く終わっていれば前日の14日昼前に岩国の空襲で亡くなった伯母も死なずにすんだだろうに、もっと前なら日本の多くの町も空襲を受けずにすんだだろうに、多くの人が亡くならずにすんだだろうにと腹立たしく思いました。

8月の末ごろになり、ようやく雨が漏らない程度にまで修理できたということで、私たち家族は自宅に戻りました。しかし爆風で立て付けがゆがんでしまっていたのでしょう、雨戸を戸袋から出すことができず、屋外と室内を隔てるものは障子のみで、夜などはとても不安でした。

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