1. 原爆以前の暮らし

私は1937年1月1日に、父重美と母フクの3番目の子供として生まれました。一番上の男の子は生まれてすぐ亡くなり、私の上には4歳上の姉美重子がおりました。下には男の子が二人、3歳下の勝之と5歳下の広三がおりました。家は尾長町(現・広島市東区尾長町、爆心地から2.8km)にあり、松本商業高校(現・瀬戸内高校)の3軒隣りにありました。父はその松本商業高校で教師をしていました。母は専業主婦でした。

姉と私は小さい時から日本舞踊を習っており、西練兵場の中にあった陸軍病院に慰問に行き、傷兵たちの前で踊ったこともあります。小さい時から兵隊さんにあこがれていました。当時の男の子たちの夢は兵隊さんになることでしたし、私は女の子なので兵隊になれないことが悔しくて、母に海軍の制服に似せた服を縫ってもらい、髪も刈り上げにしていました。今も刈り上げ姿の当時の写真が残っています。当時の日本では子供の時から男女が一緒に遊ぶことも認められていませんでした。けれども家の庭に掘られていた防空壕の中で、近所の男の子と遊んだ記憶はあります。男の子がお父さん、私がお母さんの役になって隠れて遊んだことも楽しい思い出です。もちろん一歩外に出ると、口もきけませんでした。幼い子供ですら自由に遊ぶことはできず、気軽に友達と声を掛け合うこともできず、家から一歩出ると、絶えず緊張して生きていました。

私が生まれた年には日中戦争が始まり、4歳の時には太平洋戦争に突入し、生活すべてが戦争一色でした。あらゆる物資が不足していました。尾長町には7つの神社仏閣がありましたが、そのすべての鐘が供出されて、町には鐘がなくなってしまいました。また家々の門柱や窓枠など、金属のものは次々となくなっていきました。食料も例外ではありませんでした。白い米など食べることはできませんでした。毎日の食事といえば、大根や芋をサイの目に切り、水と一緒に釜で炊き、ご飯の代わりに主食として食べていました。おかずなどありませんでした。せいぜい梅干しやラッキョウなどのお漬け物が少しある程度でした。煮炊きをするのは子供たちの仕事でした。また風呂に水を運ぶことや、火吹きでご飯が炊けるまでかまどに空気を吹き入れることなども子供の仕事でした。それでも食べるものがあるだけでありがたく、誰も文句は言いませんでした。物資はまず兵隊さんに、私たちは「贅沢は敵」と教えられていました。

あるとき、松本商業高校の教室のうち、2教室が軍に接収されました。朝、決まった時間になると進軍ラッパが高らかに鳴らされ、学生たちが大急ぎで校庭に整列するのが見えました。みんなカーキ色の軍服のような制服を着て、足にはゲートルを巻いていました。将校たちはサーベルを持ち、胸には金色の階級章などをいくつも付けていました。私は幼く、将校さんたちにかわいがってもらっていました。遊びに行くと金平糖をくれました。それまで食べたこともないような甘くて、きれいな色の金平糖に、まるで夢のような心地でした。将校さんたちが使っている教室には、普段目にすることがないような白米や砂糖、お酒などがたくさん並んでいました。

1943年、6歳で尾長国民学校(現・尾長小学校)に入学しました。入学してまもなく教科書をもらった記憶はあるのですが、教室で勉強をしたという記憶はありません。毎日校庭を耕し、畑を作り、芋、カボチャ、大根などを植えたり、畑に水をやったりの作業をしていました。また戦地にいる兵隊さんのために、慰問袋に入れる手紙を書いたり、千人針を近所の人にお願いに行ったりしていました。千人針というのは、1000人の女の人に白い布地に赤い糸で一針ずつ縫って結び目を作ってもらい、戦地にいる兵士の腹巻きにしたものです。それを兵士が身につけると弾にあたらないと信じられていたお守りのようなものです。

原爆が投下される数ヶ月前、おそらく3月だったと記憶していますが、校庭に一段高く作られていた大きな防火水槽の傍で、数人の友達と遊んでいる時に、一機のグラマン機が私たちの方に向かって急降下してきました。呆然としていると、いきなり機銃掃射が始まりました。学校の前に東練兵場があって、そこが攻撃目標だったのでしょう。グラマン機は、パイロットの顔も見える高さから掃射し、練兵場をたちまち火の海にして広島駅の方角に飛んでいってしまいました。その内の一発がその防火水槽の縁に着弾し、水槽は決壊して水があふれ出ました。この爆撃で女の人が一人亡くなったと聞きました。普段から鬼畜米英と教えられていたので、ほんとに恐かったです。

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