岡田 恵美子 Emiko Okada

原爆を作ったのも人間、落としたのも人間です

6. 長男の死

1975年、和彦が中学1年生、13歳の時のことでした。夏休みということで、家族全員で夫の親族の墓にお参りに行きました。子供たちはそのまま仁保(広島市南区)にあるいとこの家にしばらく泊まることになり、夫と私だけが帰宅しました。その翌日、夕食を作っていると、突然、親戚の者から、和彦が交通事故に遭って救急車で県立病院に運ばれたという電話がかかってきました。取るものも取りあえず、大急ぎで病院に行くと、和彦は集中治療室に入っていました。それから2週間、彼は意識不明のままベッドに横たわっていました。2週間後意識は回復し、ようやく命の危機は脱したかに思えました。話をすることもできるようになり、安堵していました。ところが事故から74日目の10月26日に突然胃から大量に出血したのです。友人や学校関係の人たち、仕事関係の人たち、多くの方が輸血に協力してくださいましたが、ついに和彦は力尽きてしまいました。

ちょうどこの年、広島カープが、結成されて初めて優勝しました。広島の町中がカープ優勝に沸き立ち、お祭り騒ぎでした。その中、私たちは悲しみのどん底にいました。私はあまりのショックに、それから2年ほどは、ほとんど家から出ることができませんでした。毎日仏壇の前に座ってアルコールに浸り、泣き暮らしていました。近所の人や宗教関係の人からお悔やみの言葉をかけられることが一番嫌でした。一歩外に出ると、和彦と同じような年頃の男の子が、詰め襟の制服を着て歩いているのが目につき、なぜうちの子がいないのかと涙にくれていました。

それまで私は仕事も順調にいき、ゆくゆくは立町(広島市中区)に一棟ビルを借りて、ファッション関係の物が何でも揃う総合ビルにしようという計画を立てていました。けれども最愛の息子を失った途端、そんな夢もむなしくなってしまったのです。

Share