岡田 恵美子 Emiko Okada

原爆を作ったのも人間、落としたのも人間です

7. 転機

ところが1986年のある日、たまたま読んでいた中国新聞に掲載されていた大きな広告に、目が釘付けになったのです。そこには、「あなたは世界平和のために 何ができますか?」と書いてありました。それは、広島にあるWorld Friendship Centerという平和団体が、アメリカに行って被爆の実相を伝えたり、日本文化を紹介したりする人を募集する広告でした。この団体は1965年にアメリカ人のバーバラ・レイノルズさんによって設立され、平和使節をアメリカに派遣したり、広島を訪問する人々に宿泊施設を提供したりするなどの活動をしていました。それまで平和のために何かしてきたということは一度もなかった私に、いったい何ができるんだろうと思いながらも、ふと応募してみようと思ったのです。

面接のためにセンターに行くと、面接官として外国人や被爆者が何人か並んでいました。私は英語もしゃべることができず、多分選ばれることはないだろうと思いました。ところが驚いたことに、1ヶ月ほどして、「あなたに決まりました。」というお電話をいただいたのです。

1987年7月24日、私は廿日市高校教諭の森下弘さん、通訳の山下美枝子さん、沼田高校教諭の伊東祐一郎さんと共に、アメリカに向けて羽田を出発しました。アメリカではロサンゼルスでバーバラさんと合流し、シカゴ、デイトン、ピッツバーグ、ニューヨーク、ワシントンDCと東海岸まで行き、また西海岸のポートランドへ戻るという文字通り大陸横断の旅となりました。約40カ所で被爆証言をしたり、折り紙を教えたり、日本舞踊を披露し、帰国は一ヶ月後の8月24日でした。

アメリカを旅しながら、私はその豊かさに圧倒されました。広い大地、豊かな食生活、人々の体格のよさ、日本が戦争に負けるのは当たり前だと思ったものです。自家用機を持っている家庭もあって、買い物は自家用機で行くと聞いてたまげました。また私たちは毎日ホームステイをさせていただいていましたが、受け入れてくださったファミリーのみなさんは、クリスチャンでほんとに優しく、私は心が解放されたように思いました。

ワシントンDCのアーリントン墓地やリンカーン・モニュメントの周りでは、ベトナム戦争の帰還兵と思われるホームレスの人々を、たくさん見ました。彼らの多くは戦争で精神を病み、普通の生活が送れないと聞きました。私は原爆で、それまで優しかった母が精神を病み、別人になってしまったことを思いました。戦争は人間の心まで狂わせてしまうものなのです。

東海岸で最後に立ち寄ったのは、ペンシルベニア州のフィラデルフィアでした。ここでは映画「ロッキー」のロケ地になった、実際に奴隷が引かされていたという大きな粉曳きの石臼を見ました。牛や馬の代わりに奴隷に曳かせていたそうです。

デトロイトのキャンプ場で被爆証言をした時には、来ていた人から、

「8月6日は、ラジオで原爆が投下されたと聞いて、お祝いをしました。」

と言われ、ほんとにショックでした。

小学校を訪れた時には、新聞紙で鶴を折ってあげました。子供達は、一枚の紙から立体的な鶴ができていくことに、驚きの声を上げてくれました。

またあちこちの集会で、被爆の話をすると、日本が最初にパールハーバーを攻撃したんじゃないかという声が上がりました。私は言い返す言葉もありませんでした。私は平和を語るためには、被害ばかりを持ち出すのではなく、日本が始めた戦争で、パールハーバーで亡くなった人々だけでなく、多くの国の人々に大きな被害を与えたことを、自分自身が知らなければならないと思いました。それまで私は日本の加害については、ほとんど知らなかったと気づきました。

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