岡田 恵美子 Emiko Okada

原爆を作ったのも人間、落としたのも人間です

5. お金に追われる日々

債権者との裁判で、1800万円の借金のうち、私名義の借金を一日1000円ずつ返すことで和解が成立しました。尾長の家はもとより、父名義になっていた西高屋の山、畑などもすべて借金のカタに取られてしまいました。一人残された私にできることと言えば、ミシンを踏むことだけでした。ミシンは月賦で購入しました。小学生のころ主城教会で原爆孤児の下着を何百枚と縫ったことが、この時役に立ちました。高校卒業後も、私は休むことなく、毎日朝から晩までミシンを踏み、なんとか一日に1000円ずつ返していきました。毎日銀行員が集金に来ていました。

その後、道路整備のために猿猴橋近くの商店街に父が借りていた店を立ち退くことになり、その代替地として広島駅の西側にできた駅西商業センターの中の一軒を住居兼店舗として借りることになりました。三階建てでしたが、敷地面積がたった6坪(12畳、約20㎡)の建屋で、一階は店舗、二階には小さな台所と4畳半の和室があり、三階は板敷きの部屋になっていました。洋裁店を開店したと同時に、縫い子だけをしていてはお金にはならないと、夕方、店を閉じた後、近所の洋裁学校に行き、採寸や型紙の製図、デザインなどの基礎を学びました。学校には一年間通いました。

20歳の時、電電公社の広報誌に、「ミシンを踏む女」として私の写真が掲載されました。その時、撮影などでお世話になっていた公社の広報部社員だった男性とおつきあいが始まりました。翌年、彼のお母さんが亡くなり、それから一緒に住むようになりました。彼の月給は3万円ほどでしたが、そのほとんどは私が負っていた借金に消えていきました。お陰で借金は3年で返し終わりました。お母さんの喪中ということもあり、正式に結婚したのは彼が25歳、私が22歳の時でした。

当初、一人で委託された服を縫っていましたが、次第に仕事量が増え、縫い子さんを雇うほどになりました。仕事は順調で、デパートなどからも委託を受けるようになりました。私は製図やデザインに専念し、縫うのは6人の縫い子さんたちに任せるまでになりました。結婚し、店舗も従業員が増え手狭になったので、それまで店舗の上の階に住んでいましたが、中山(現・広島市東区中山)に家を建てることにしました。24歳の時に長男和彦、その2年後に長女幸恵が誕生しました。

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