1. 日本の植民地下の朝鮮

私の両親が住んでいたのは、釜山にほど近い慶尚南道、普陽郡(現在の普州市)の農村でした。慶尚南道は朝鮮半島の南部に位置し、豊かな穀倉地帯で、二毛作も行われていました。道(どう)の中央には洛東江という大きな川が流れていて、氾濫を繰り返すことから、流域には水路が縦横無尽に張り巡らされていました。

朝鮮では儒教の影響が強く、一族が一つの村に住み、長男が家督を継ぎます。次男以下は、一族の農地からあがった収穫物から、分け前をもらって生計を立てていました。ところが1910年に朝鮮半島が日本に併合され、植民地となると、農作物の供出が始まりました。供出とは名ばかりで、搾取というにふさわしい厳しい取り立てでした。1930年の半島の人口約2100万人の約70%が農民だったと言われていますが、その農民達が供出する米の、半島を含めた大日本帝国の米生産量に占める割合は60%にも達していたのです。日本本土の人口が7000万人以上いたことを考えると、かなりの搾取がうかがわれます。多くの一族で、次男以下の家族を養えなくなったり、小作に転じたりする家族も出てきました。元々貧農であった人々や、大きな農家であっても次男、三男などは何とか現金収入を得なければなりませんでした。

そんな中、農村には日本への仕事の斡旋をする業者が頻繁にやってきたのです。斡旋業者は、日本人のこともありましたし、朝鮮人のこともありました。日本に行けば仕事があり現金収入を得ることができると吹聴し、労働者を集めました。三男であった父もその誘いにのり、1929年、日本で働く決意をしました。生活の目処がたった半年後、母も日本に渡ってきました。

Share