朴 南珠 Park Nam-joo

原爆は絶対にあってはならない

6. 戦後の生活

父は8月7日に倒れて以来、見た目はどこも悪くないように見えましたが、どうしても体が動かないようで、全く仕事ができなくなりました。私たちは「原爆ブラブラ病」などという言葉も知りませんでしたし、それが放射能による後傷害であるということも知りませんでしたから、「横着病」と呼んでいました。あれほど一生懸命、家族のために働いていた父はさぞかし情けなかったことでしょう。それまで全く飲まなかったお酒を飲むようになりました。それも「どぶろく」と呼ばれていた密造酒でした。また二ヶ月に一度は洗面器一杯ほども血を吐くのです。その度に、子供達が民家の二階に開設されていた福島診療所(現在の福島生協病院の前身)にお医者さんを呼びに行きました。確か田坂先生と言われる若い先生でしたが、夜中であっても嫌な顔もせず、家まで往診に来てくださいました。被爆後10年ほど経って、このような症状が放射能に由来するということが認められるようになり、父はようやく「原爆症」と認定されました。原爆症ということが分かってまもなくのころ、肝臓癌を煩っていることが分かりました。先生からは、父は心臓がとても強いから生きておられるんだねと言われました。80歳で亡くなるまで、ずっと入退院を繰り返しました。

母と私たちは生活をするために、闇市でふかし芋を売り始めました。私は毎朝川を渡って庚午(広島市西区)までサツマイモを買いに行き、家で芋をふかしました。売っていたのは妹2人と母で、己斐の駅前にできていた闇市でした。朝鮮の風習では、女の子は13歳になったらあまり外にださないことになっていました。ですから私は家で家事を担っていました。また弟は他の子供達と一緒に進駐軍の兵士の後をついて回って、投げ捨てられるタバコの吸い殻を拾い、残った葉を集め、新しい紙に巻いてタバコを作り売ったりもしていました。原爆孤児たちもたくさんいました。かわいそうに思い、何度か孤児をバラックに連れて帰って寝かせてあげたのですが、朝起きると何か物がなくなっていました。

父が働けなくなって、家族総出で働かなければならなくなったため、私たちは学校に復学することはできませんでした。小学生の妹たちは、近くで、無償で開かれていた夜学に行くようになりました。幼稚園児だった弟は1年遅れて小学校に入学しました。

隣組は戦後も2年間ほど機能していました。隣組を通じて様々な物資が配給されました。市民は原爆ですべてをなくしていましたから、配給される衣料や寝具や建設資材はほんとうに助かりました。寒くなっても靴も靴下もなかったので、凍傷になる子供もたくさんいました。またアメリカに住む日系人が中心になって送ってくれたララ物資も入ってくるようになり、隣組を通じて配られました。少しずつ最低限の生活が営めるようになりました。

我が家の生活が向上したのは、朝鮮戦争が始まったからでした。1950年6月に始まった朝鮮半島の内戦は3年間続き、米国軍を巻き込み、戦闘地域は朝鮮半島全域に及びました。その米国軍の武器や物資を供給していたのは日本でした。朝鮮特需と呼ばれる好景気が訪れたのです。日本では軍服、テントなどの繊維製品や、武器、鋼管、鉄条網などに使う鉄製品、食料品などの業界が活況を呈し、当時は「糸ヘン景気」「鉄ヘン景気」「動乱景気」などと呼ばれていました。私たちの家族もガレキの中から鉄を集めて売りました。慣れてくるとガレキのどのあたりに台所があって、管や鍋などの鉄製品を見つけられるかが分かってきました。1日で2000円になったこともありました。当時、失業対策事業で仕事をすると、1日に200円だったことを思うと、かなりの稼ぎになりました。

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