朴 南珠 Park Nam-joo

原爆は絶対にあってはならない

7. その後の生活

我が家の隣家も在日朝鮮人でしたが、そのお嫁さんには弟さんがおられ、早稲田大学に入学するために東京の予備校で勉強しておられました。東京での生活は大変で、毎朝新聞と牛乳を配達していたそうです。太平洋戦争が始まる前に、兵役などの事情があり、いったん故郷に戻られました。そして日本兵として満州に派遣しされた後兵役を終え、再び日本に戻ってこられました。当時、朝鮮半島は日本の植民地であったため、私たちは国内旅行の感覚で、行き来していました。私たちも夏休みに祖父母の家に遊びに行ったこともありました。

原爆が投下された時は、お姉さんを案じ、2日かけて東京から来られました。戦後は、しばらく故郷に戻っていたらしいのですが、どうしても勉強を続けたいと、今度は密航で東京に戻ってきました。朝鮮が独立し、もう自由に行き来ができなくなっていたからです。しかし、東京はとても勉強を続けられるような状況ではなく、姉を頼って広島に来ておられました。同郷であったこと、彼の家柄(両班と呼ばれる韓国の支配階級)がしっかりしていたことなどで、親同士が私たちの結婚を決めました。今では恋愛結婚が普通ですが、当時、結婚はほとんど親が決めていました。私たちは1949年の1月に結婚しました。夫は23歳、私が17歳の時でした。

私たちが結婚した頃、生活はたいへん厳しかったのですが、夫は人の下で働くことを嫌い、まったく働いてくれませんでした。私たちは実家のすぐ近くに住んでいましたので、私は母が始めた密造酒のどぶろくを作って売るという仕事を手伝いました。当時はちょうど失業対策事業として、政府が多くの人を雇って、建設現場で土木作業をさせていました。我が家の近くでも、後に平和大通りと呼ばれる100メートル道路建設のために、大勢の作業員達が働いていました。彼らが昼休みも、仕事終わりも一杯10~20円のどぶろくを求めて来てくれました。しばらくすると広島に民団(在日本大韓民国団)ができ、夫はそこでハングル語の教師の職を得ました。月に15000円のお給料をもらうようになりました。

翌年には双子が早産で生まれました。ところが生まれてまもなく相次いで亡くなってしまったのです。当時、被爆者は死産や早産が多かったのです。特に初めての子供が亡くなるケースは多かったようです。私たちの初めての赤ちゃんが亡くなた時、ABCC(原爆傷害調査委員会)から白衣を着た人が3人で家を訪ねてきました。手には白い箱を持っていました。ちょうど赤ちゃんの棺桶のように見えました。私たちが子供達の死亡を知らせた訳ではありません。きっと産婆さんが、子供が亡くなるとABCCに連絡することになっていたのでしょう。彼らは、

「丁寧に葬らせていただくので、遺体をABCCに渡してください。もし引き取りを希望されるなら、後でお返しします。」

と言いました。それを聞いた夫は烈火のごとく怒って、絶対に渡さないと拒否しました。周りの人たちの多くは、ちゃんと埋葬していただけるのならと、引き渡したと聞きました。お葬式を出そうにも、原爆で菩提寺はなくなってしまっているし、埋葬するお墓も倒壊してしまっていたからです。私たちは、カトリック信者なので、教会でお葬式をしていただき、教会の墓地に埋葬していただきました。

その後、女の子3人と男の子1人に恵まれました。子供が2歳になるとABCCの職員がジープで迎えに来ました。私は子供に新しい服と下着を着せ、子供と一緒にABCCに行きました。子供に検査を受けさせるためです。帰る時には子供にビスケットを数枚くれました。しかし検査をしてもその結果を知らされることはありませんでした。ただデータを集めるためだけに利用されているということが次第に分かり、それ以降、検査は拒否することにしました。

結婚して5~6年経った頃、私は鉄くずを集めたり、どぶろくを売ったりして得たお金を元手に、2頭の豚を購入し、養豚業を始めました。夫はこの事業には無関心でした。戦争中、防火帯を作るために建物疎開で平地にされていた空き地(現在の平和大通り)で豚を飼育し、子を産ませて育て、売るのです。どぶろくを作る際に出るカスなどを餌にしました。その後、平和大通りが作られることになり、住んでいた家の跡地に建てていたバラックや、豚を飼育していた土地を明け渡すことになりました。私たちは近くの公営アパートに引っ越しました。そのころには豚は10頭ほどになっていました。その立ち退き料とそれまでの貯金で、1964年に古市(現在、安佐南区)に400坪の土地を購入しました。翌年には、デンマーク式と呼ばれるモダンなコンクリート作りの豚舎を建て、4~500頭の豚を購入し、大規模に養豚業を再開しました。餌を安定的に確保するために、東洋工業の給食センターと契約し、残飯を買い取ることにしました。残飯をもらいにいくために、私は2トントラックにも乗るようになりました。ただ残飯の中に混じっているプラスチックのゴミをより分ける作業はたいへんな重労働でした。

1965年の日韓国交正常化後、故郷へ 上段左甥、右父、下段左母、右母の兄嫁

事業は軌道に乗ってきましたが、20年ほど経った年、台風で近くを流れる古川が氾濫し、豚舎も豚も流されてしまったのです。その後、政府はその土地を買い上げ、治水工事をすることになりました。私は再び豚舎の跡地を明け渡すことになりました。今回は、立ち退き料と営業補償を合せて1億2000万円以上を手にしました。税理士さんは、このままお金を使わないで貯金してしまうと、多額の税金を取られるから、何か代替事業を興した方がいいとアドバイスしてくれました。私は年齢的にもう厳しい労働はしたくありませんでしたので、夫と相談し、土地を買ってマンション経営をして、家賃収入で余裕のある老後を過ごそうと考えました。 時代はバブルの真只中でした。銀行もどんどんお金を貸そうとしていました。私は手元にあるお金以上の金額の土地を、銀行から借金して購入しました。ところが突然バブルがはじけ、マンションを建てるお金を借りるどころか、土地を売って、借金を返さなければならなくなりました。あれほどお金を貸したがっていた銀行は、手の平を返したように、お金を貸さず、しかもそれまでの借金の返済を迫ってきたのです。購入していた土地も、借金返済のために売るときには購入時の価格を大きく下回っており、結局、立ち退きで得たお金は借金返済のためにすべて失ってしまいました。

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