朴 南珠 Park Nam-joo

原爆は絶対にあってはならない

2. 広島での生活

父が広島にやってきたのは、福島町(現在の広島市西区福島町)に普陽郡から来た人がたくさんいたためです。隣の観音町には、別の村から渡日してきた人々がまとまって住んでいました。父は広島に来て以来、毎日午前2時ごろから5時頃まで大八車でゴミ収集の仕事をし、いったん帰宅してクッパを食べ、少し仮眠を取り、また8時から近くの中野化成という工場に出かけていました。そこでは、と殺場で出る牛脂を大きな釜で煮て、石けん工場に卸したり、牛骨から骨粉を作ったりしていました。家は、現在、広島のデルタを東西に貫く平和大通りの西の端、新己斐橋がかかっている真下あたりにありました。戦後平和大通りが建設される時に立ち退きになるまで、私たち一家はそこにおりました。

私は1932年7月に長子として生まれました。戸籍が半島にあるため、本籍地で出生届けが受理された9月15日が誕生日ということになっています。私の下には妹が3人と弟が2人生まれました。末っ子の妹が生まれたのは終戦の翌年でした。近所には半島出身者が多く、お互いに助け合いながら暮らしていました。

今でも覚えているのは、一度、近所の仲良しのさだちゃんが通っている幼稚園について行った時のことです。先生から「名字は何?」と聞かれ、名字の意味が分からず、「みょうじ」と答えたら、その先生が「みょうじ」と書いた名札を作ってくださったのです。幼稚園がとても楽しいところのように思え、家に帰って、両親に自分も幼稚園に行きたいとお願いしましたが、父からは「女の子は幼稚園に行かなくてもいい。」と言われました。しかし、父が「うん」というまで大泣きして、とうとう通わせてもらえることになったのです。両親は近所の人からも、女の子を幼稚園に通わせるなんてと非難されたそうです。私は小学校でも活発で成績もよかったので、クラスの副級長をしていました。当時級長は男の子で、女の子は副級長と決まっていました。小学校2年生ごろのことだったと思いますが、クラスの男の子に、「朝鮮に帰れ!」といじめられましたが、私は、「さくれるな!」と言い返したものでした。広島の方言で、「頭が悪いくせにいばるんじゃない!」とでもいう意味でしょうか。

小学3年生になると、それまで通っていた福島国民学校が、太田川放水路建設のために廃校になり、私は天満国民学校(現・天満小学校)に編入されました。太田川放水路建設というのは、広島市に流れ込んでいた7本の川のうち、最も西側の2本の山手川(西側)と福島川(東側)を、山手川側をより大きな川に広げ、福島川側を埋め立て1本の大きな川にするという事業でした。それまで広島市では毎年のように川が氾濫していました。この二つの川の間にあった福島町は、山手川に近い方が川にするために立ち退きになったのです。私の家は大きく川幅が広げられる山手川と、埋め立てられる福島川との境に作られた堤防のすぐ東側、埋め立てられる側に残されました。建設は1932年に始まりましたが、戦局の悪化のために1944年に中断してしまいました。

1939年に、政府は翌1940年2月11日から8月10日までの6ヶ月間に、朝鮮半島、日本国内に住むすべての朝鮮人は、名前を日本風に変えなければならないという制令を出しました。私は自分の名前が日本人風ではないことがとても嫌でした。学校に行っていても「朝鮮人」「朝鮮に帰れ」などと言われるからです。私は早く日本名にしてほしいと願っていましたが、両親は期限を過ぎても改名しませんでした。理由を聞いても何も教えてくれませんでした。朝鮮半島では約80%の人が改名したそうですが、日本にいた半島出身者で改名したのはたった14%だったそうです。私は両親がなぜ改名してくれないのかも分からず、泣いて日本人の名前に変えてくれと訴えました。それから2年後、私が女学校に入学する前になって、ようやく私の名前は「朴南珠」から「新井奈美子」になりました。小学6年生の私にとっては、これで日本人になれると、とても嬉しいことでした。「新井」という名字は、朴一族が新羅の時代に井戸から起こったという言い伝えがあったからです。朴という名字を持つ家族の多くは新井になりました。奈美子というのは、父が本名の南珠から一文字とって南子(なみこ)とつけてくれたのが気に入らず、自分が好きな町、奈良から一文字とってつけた名前です。奈良の町は、朝鮮の歴史ある町を思い出させてくれるので、とても好きでした。

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