朴 南珠 Park Nam-joo

原爆は絶対にあってはならない

4. 1945年8月6日

その日は朝からよく晴れ、「今日はこの夏一番の暑さになりそうだな~。」と思っていました。広島にはそれまで、何度か爆弾は落とされたものの、大きな空襲というものが一度もなく、その朝も空襲警報が鳴り、一機のB29が飛んできましたが、また冷やかしだろうくらいにしか思っていませんでした。後にそれは原爆投下前の気象観測機だったと聞きました。私は朝ご飯を食べて、妹(3年生)と弟(幼稚園児)を連れて、二人が疎開させてもらっていた父の遠縁宅(廿日市市宮内)へ向かおうと福島町電停から電車に乗りました。妹と弟はその前日家に戻って来ていて、また疎開先へ戻るためでした。

電車が己斐に向かって西へ70~80メートルほど走ったところで、車内で「B29が飛んどる!」という声がしました。7時半に空襲警報が解除になったばかりなのに、おかしいなと思った瞬間、電車が火の塊に包まれまれたように感じました。そしてドーンというもの凄い音が聞こえました。しばらくすると「早く降りろ!」という声がし、電車から降りると、あたりはほの暗く、少し前まであんなに明るかったのにと不思議でした。少し明るくなって周りの人たちを見ると、みんな上半身が血だらけになっていました。驚いたことに、降りた場所はさっき電車に乗った福島町の電停でした。福島町から己斐に向かう線路は坂になっていて、上っていた坂を70~80メートル逆走してしまったのでしょう。この電停は爆心地から約1800mだそうです。

妹と弟はほぼ満員だった車内で、大人たちの陰になっていたせいか無傷でした。私は頭頂部に飛んできた木片やガラス片があたり、いくつか裂傷を負っていて血が流れていました。あたりは、さっきまであった家々や建物がすべて倒壊し、真っ平らになっていました。その光景を見た時、体から血の気がサーと引いていったことを今でも覚えています。乗客の一人が、「ガスタンクが爆発したんかのう。」と言っていました。私は弟と妹の手を無意識に握りしめて、しばらく呆然と立ち尽くしていました。

とにかく電停から家に戻ろうとしましたが、倒壊した家々が道を塞いでいて歩けず、家の裏にあった太田川放水路を建設するために作られた堤防の上へあがって、家を目指そうとしました。高いところから見ると広島の町が全部なくなってしまっていたのです。もちろん自宅も完全に倒壊していました。電車を降りて5~10分ほど経ったころだったと思いますが、あちこちから煙が上がるのが見えました。しばらく見ていると広島の町全体が火の海になっていきました。まもなくして父も堤防にやってきました。父は福島川の川辺にあった中野化成で仕事をしていました。原爆投下時はたまたま塀の陰にいて何のケガも負わなかったそうです。

その堤防には防空壕もあり、何かがあればそこに集まることになっていたので、近所の人たちも次々と集まってきました。みんな全身血だらけで、「何が起きたん?」「熱い、熱い」「助けて!」と口々に言いながら右往左往していました。しばらくすると手を前に突き出し、腕からはまるで振り袖のように皮膚を垂らしている人たちが、市内中心部から次々と逃げてきました。みんなひどい火傷を負っていて、緑が見える己斐の山を目指して堤防の斜面を上ろうとしていました。しかし多くの人々が力尽きて、斜面に倒れてしまうのです。堤防の斜面は足の踏み場もないほどに、生きている人、死んでいる人で埋め尽くされていきました。一度倒れた人は、二度と起き上がることはありませんでした。そして最期は必ず「水をくれ!」と言って亡くなっていくのです。それまで、兵隊さんは「天皇陛下万歳!」と言って死んでいくと聞いていましたが、誰もそんなことを言う人はなく、みんな「熱い~」「水~」と言いながら息絶えるのです。「お母さん!」と言う人もいませんでした。

今ではこうやってお話していますが、あの日から50年間、目にしたその恐ろしい光景は鮮明に覚えてはいたのですが、脳裏の奥深くに封じ込め、どうしても口にすることはできませんでした。本物の地獄というものを見たことはありませんが、地獄という言葉すらこの光景を言い表すには十分ではありません。原爆なんてものは絶対にこの世にあってはならないのです。

自宅にいた母は、原爆が投下された時には、1歳の弟をふとんの上に寝かそうと、うつぶせの姿勢だったそうです。弟は母が覆い被さった状態だったので、家が倒壊したにもかかわらず、まったくケガをしていませんでした。母は背中に大ケガを負いました。5年生の妹は二階にいて、爆風で20~30メートルほど飛ばされたそうですが、幸い無傷でした。

原爆が投下されて30分ほど経ったころ、いきなり空から真っ黒な油のような雨が降ってきました。雨は30分くらい続いたと思います。着ていた服も真っ黒になりました。周りの人たちもみんな真っ黒になっていました。その雨を見た近所の人が、「特殊爆弾が落とされた!」と叫びました。焼夷弾が空から無数に降ってきたわけでもないのに、広島市が一瞬でなくなってしまったし、ありえないような黒い雨が降るなんて、ほんとに特殊な爆弾が落とされたんだと思いました。まだ燃えていなかった家のガレキの中から服や布団を出そうとしても、すべてその黒い雨のせいで真っ黒になっていました。そのシミはいくら洗ってもとれませんでした。

昼前くらいだったと記憶していますが、近隣地区から救援にやってきた警防団の人たちが、水や赤チンやヨーチンなどを配ってくださいました。大きめの水筒にはいった水は、そこにいたみんなで回し飲みしました。ひどい火傷を負っている人に水を飲ませると、それまで「水をくれ~」と叫んでいたのに、急に死んでしまうので、みんなで、もう水を飲ませてはいけないと決め、その後は火傷の人には水をあげないようにしました。今思うと、あげてもあげなくても死んでいく人たちに、なぜあげなかったのかと辛い気持ちになります。警防団の人たちは、すでに亡くなっている人たちをそのままにして、助かりそうなケガ人だけを担架に乗せ、川向こうにある己斐小学校に連れて行きました。

午後になって、母は妹たちや弟たちを連れて宮内に行くことになり、電車が動いている駅まで小さい子供達の手を引いて歩いて行きました。父と私は仕事に出ていた叔父(母の兄)が帰って来た時に心配するだろうからと堤防に残りました。堤防の上には近所の人たちが大勢集まっていたのですが、町内会から勤労奉仕に出ていた人たちや、学徒動員で建物疎開に出ていた同級生達も誰一人帰って来ませんでした。

8月6日の夜、父と私は大勢の被爆者と一緒に堤防の上で寝ました。周りには死体がたくさん転がっていましたが、怖いという感覚は全くおきませんでした。空は、まるで空自体が燃え尽きるのではないかと思えるほど、一晩中真っ赤に染まっていました。それまで生きていた周りの人たちも、次々と亡くなっていきました。全身に火傷をおって亡くなった人たちは、6日は全身が真っ赤に腫れ上がり、翌日になると肌が黒くなり、目が飛び出てくるのです。そして全身がふくれあがっていました。その姿は、とても人間とは思えませんでした。倒壊してしまっていた家々は、翌日までにはすべて燃えてしまいました。日本人は次々と近郊に住む親族を頼って堤防を離れていくのですが、私たち在日の者には、頼っていける親族がある訳ではなく、みんな、ただ燃えていく我が家を呆然と見ているだけでした。

翌朝早く、母は5年生と3年生の妹と幼稚園児の弟を宮内の知人に預け、一番下の1歳の弟だけを連れて戻ってきました。そして両親は、市内中心部にある日銀の建物の屋上に砂を運ぶ仕事をしていた叔父を探しに町の中に入っていきました。爆心地から380mという地で、しかも屋外で作業をしていたであろう叔父が無事であるはずはありません。今もって行方不明のままです。

夕方、父は帰宅すると、見てわかるほどに顔が腫れ上がっていました。そして堤防に突っ伏してパタンと倒れてしまったのです。父は屈強な体格で健康な人でしたが、その後二度と元の父に戻ることはありませんでした。母は叔父を探してその後も毎日毎日歩き回りました。市内のみならず、似ノ島や廿日市などにある救護所にも足を伸ばしていました。しかしどこを探しても叔父の痕跡は見つかりませんでした。

母は父と同じように被曝していたはずですが、父のように倒れることはありませんでした。これは私の推測ですが、原爆投下当日に、放射能の残る広島から遠く離れた宮内に行き、きれいな水を飲んだからではないでしょうか。その後も父ほどひどい原爆症の症状が出たことはありませんでした。 私は頭頂部に多数の傷を負っていて、血やウミが流れていました。周りの被爆者が、傷を負うとウジがわくのを見ておりましたので、ずっと布を巻いていました。おかげでウジがわくことはありませんでしたが、傷が治ることはありませんでした。10月ごろ、近所に住むカトリック信者の許田さんが、教会の神父様(外国人)からいただいた薬だから飲んでみてと、抗生物質のダイヤシンをくださいました。驚いたことに、それを1錠飲んだだけで、翌日にはウミが止まったのです。その後傷は徐々に治っていきました。西洋にはいい薬があるものだと感心したものです。

今も残る傷跡

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