朴 南珠 Park Nam-joo

原爆は絶対にあってはならない

5. 1945年末までの混乱

堤防に避難していた近所の人たちの中で、比較的元気な者たちが助け合って2~3日で自宅の跡地に掘っ立て小屋を建てました。屋根にするトタンは隣組を通じて配給があったように記憶していますが、他の資材は倒壊した建物の木材などを拾ってきたものでした。バラックとも呼べないような粗末なもので、雨が防げればいいというレベルのものでした。

8月15日に天皇の玉音放送がありましたが、私が日本の降伏を知ったのは、近所の人たちが「日本が降参したらしいよ。」と噂をしていたからでした。もう空襲の心配はなくなったと思うと嬉しかったのですが、日本が正義の戦争をしていたと信じていた私は、半分悔しい気持ちもありました。教育というものは恐ろしいものです。

9月に入ると、草津港(広島市西区)のすぐ近くにあった「荒手」という小さな漁港から、漁船で朝鮮へ連れて行くという斡旋業者が現れました。在日の多くは、お金を払って帰還していきました。我が家の親族もほとんど帰っていきました。私たちは、叔父の行方を捜さなければとの思いで日本にとどまることにしました。いくら市内中心部にいたとはいえ、もしかしたらどこかに吹き飛ばされて無事かもしれない、どこかの救護所に運ばれ、私たちが探すのを待っているのかもしれないとの思いがあったからです。また叔父は母の一族の長男で、その叔父を日本に置いて帰るなど、母が実家に戻った時に、親に合せる顔をないというのです。ところが2~3ヶ月もすると、故郷に帰っていた人たちが次々と日本に戻ってきました。祖国に戻っても生活の基盤もなく居場所がなくなっていたのです。

9月17日には、昭和史に残る大きな台風、枕崎台風が、原爆でただでさえ疲弊した広島の町を襲いました。住んでいた掘っ立て小屋は、容易に風で飛ばされ、私たちは大雨でずぶ濡れになりながら、泥や汚物が混ざる水の中に2~3時間ただ立ちすくんでいました。ようやくバラックを建て、必死で生活を立て直そうとしていた広島の人々は、再びすべてを失ってしまったのです。

占領軍GHQを見たのは10月に入ってからでした。女の子は外に出てはいけないと言われ、最初は恐かったのですが、周りの子供たちがチョコレートや飴をもらっていて、それほど恐ろしいものでもないと思い、外に出始めました。私が直接占領軍のジープを見たのは、通りを歩いていて、ジープから目の前にダンボール箱が落とされた時でした。その箱にはチーズやバター、チョコレートやキャンディー、肉の缶詰、コーヒーなどが入っていました。チョコレートや飴がとても美味しかったことは、今でも忘れられません。驚いたのは女性兵士がジープに乗っていたことでした。

11月になり、ようやく涼しくなってきたころから、今まで元気だった人たちが次々亡くなっていくようになりました。最初は髪の毛がバサッと抜け落ち、そして一週間ほどで亡くなっていくのです。私も、次は自分かもしれないと不安で、しょっちゅう髪に手を入れ、抜け落ちないかと触っていました。私の周りの人たちも、絶えず髪の毛を気にしていました。死体を焼くための木も不足するほど、大勢が亡くなっていきました。残留放射能などという言葉は知りませんでしたが、「広島には70年間草木も生えない。」という言葉は鮮明に覚えています。原爆という言葉すら、1946年にABCC(原爆傷害調査委員会)ができるまで知りませんでした。

戦後衛生状態が悪く、人々はシラミに悩まされていました。女の子たちは髪の毛にびっしりと白いシラミがついていました。11月末か12月に入ったころ、GHQがDDTの空中散布を行うことになり、私たちは家中の布団や衣服を道路に広げて並べ、自らも外に出て頭からDDTをかけられました。飛行機から白い粉が大量にまかれ、飛行機雲と混じり合って空が白くなって行く様を今でも覚えています。

また終戦後流行っていたのは梅毒でした。家族を養うためであったり、家族を失って自分が生きていくためだったのでしょう。大勢の女の子が売春させられていました。彼女たちは「パンパン」と呼ばれていました。「パンパン」というのは、男性が女性に向かって手を二回たたくのが、売春の合図だったからです。私の住んでいた町にもいました。隣組の通知には、銭湯に行っても、梅毒に感染しないために、直に座らず、必ず下着などを敷いて座るようにとありました。 私はそれまでひどく体調が悪いということはありませんでしたが、年末に突然土間に倒れ込み、その後3日間意識が戻りませんでした。その間ずっと下痢が続き垂れ流し状態でした。そのころ、私と同じような症状で亡くなっていく人が近所にもたくさんいて、家族はもう私がそのまま死んでしまうのではないかと思ったそうです。3日目に突然「水をちょうだい。」と言って目を覚まし、与えられた水を飲んだ後、徐々に体調は回復しました。

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