朴 南珠 Park Nam-joo

原爆は絶対にあってはならない

3. 戦時下の生活

戦局が悪化すると、日本中の都市が空襲を受けるようになりました。空襲を避けるために夜は真っ暗にしなければいけませんでした。少しでも明かりがあると空襲の標的になるからです。ある夜、弟が肺炎から脳膜炎を発症し、もうその夜が最期になるだろうと家族全員が、弟が横たわる布団の周りに集まっていました。部屋の明かりのまわりには黒い布を巻き、明かりが外に漏れないようにして、家族全員が弟の顔をのぞき込んでいました。それでも巡回していた警防団に気づかれてしまったようです。突然警防団員が土足で玄関戸を蹴破って部屋に入ってきて、

「おまえら朝鮮人はスパイか!」
と叫び、父を蹴飛ばしたのです。その騒ぎを聞きつけた近所の人が、

「子供がこんな状態の時に、なんてことするんだ!」
と言ってくれました。警防団というのは、私たちにとってはとても恐い存在でした。

1945年4月に、私は進徳高等女学校に進学しました。小学校6年生になると、卒業後働くか、2年間の高等小学校に進むか、中学校(男の子)あるいは高等女学校(女の子)に進むかを決めなければなりませんでした。当時、在日朝鮮人の子供達は家庭が貧しく、ほとんどは小学校で学業を終えていました。我が家は父がいくつも仕事を掛け持ちして働いてくれたお陰で、比較的裕福な暮らしをしており、私の進学に対しても何も言いませんでした。周りの人からは、女のくせに上の学校に行くなんてと陰口を言われたものです。女の子に教育をつけるということに否定的な人が多かった時代でした。

その年、妹2人は5年生と3年生、弟2人は幼稚園児と1歳でした。中学生や女学生といっても毎日勉強するわけではありませんでした。1年生、2年生は建物疎開といって、市内に空襲があった際、延焼を防ぐために、防火帯を作る作業にかり出され、3年生、4年生は軍需工場へ動員されていました。

この学校の授業の中で、今でも鮮明に覚えているのは、当時敵性語とされていた英語のアルファベットの読み方を教えてもらったことと、歴史の授業の時に、みんなが「支那は馬賊、匪賊、アヘン、モルヒネ」とバカにしていた中国のことを、先生が黄河はアジアの文明の発祥の地と教えてくださったことです。私は先生がこんなことを言って、憲兵に見つからないかとひやひやしました。当時、私たちは、「中国は乱れた国だから、日本が大東亜共栄圏を作り、正しい方向に導かねばならない。日本は正義の戦争をしているのだ。」と教えられていました。

7月20日もいつものように富士見町で行われていた建物疎開に出ていました。ちょうど建物にロープをかけ、大勢で引き倒している時に、木片が顔に飛んできて、眉間に5針縫うような大ケガをしてしまいました。母からは、ケガの心配ではなく、「女の子なのに顔に傷がついてお嫁にいけなくなる。」と言われました。そのケガのせいで原爆投下の8月6日も作業を休んで家におりました。傷跡は今でも残っています。

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