1. 生いたち

私は1931年3月11日に、高田郡市川村(現・広島市安佐北区白木、爆心地から約35km)という農村で、父・兼雄、母・タマの4番目の子供として生まれました。兄弟は5人で、12歳上の兄・利勝(としかつ)、9歳上の長姉・澄子、5歳上の次姉・緑、そして3歳下に弟・三彦(かずひこ)がおりました。私が生まれた時、女の子が3人続いたことで父が怒り、プイッと家を出て行ってしまい、名前もつけてくれなかったそうです。だから名前は母と伯父(父の弟)がつけてくれました。当時は男の子が生まれることが一家の誇りでした。

私の家は農家でしたが、父は村会議員や常会長(戦時中の隣組のトップ)をしており、村や隣組の世話に忙しくしていました。子供のころ学校で入学式、卒業式などの式があるときには、父が来賓として列席しており、少し恥ずかしかったことを覚えています。母は忙しい父に代わって、家事・育児に加えて田んぼで米を作ったり畑で野菜を育てたりといった農作業もしなければいけませんでした。我が家は比較的大きな農家で、家族が食べるには事欠きませんでしたが、それでも収穫した米の多くを供出させられ、ご飯は銀飯ではなく、おかゆや麦ご飯や芋ご飯でした。近所に理髪店をされていたご主人が、徴兵され収入がなくなり、幼い子供二人を残し、奥さんが餓死してしまわれた家もありました。

母は決して怒らない人で、子供達が悪いことをしても、ことわざなどを用いて話してきかせてくれるような人でした。私が父の机の上に置いてあった50銭を黙って持って出て、お菓子屋に行ってお菓子を買ってしまった時も、「天知る地知る我知る子(なんじ)知る」ということわざを教えてくれました。誰も知らないと思っていても、天の神様も地の神様も知っているし、自分もあなたも知っているという意味です。また「人の悪口を言ってはいけないよ。」とか、「自分の思っていることをすぐ口に出してはいけないよ。」なども母がよく言っていました。

兄の利勝は、高田中学校を卒業後、1年ほど呉海軍工廠(戦艦大和を建造した海軍の造船所)で働いていましたが、私が小学1年生の時に志願して職業軍人になりました。村では出征兵士を見送る時は、村中みんなで氏神様に行って武運長久を祈り、その後国鉄の駅まで見送りに行っていました。兄が出征する日は、雪が膝の高さまで積もってとても寒い日でした。私たち小学生は兵士を見送る時には、駅の前に並ばされ、日の丸の小旗を振ったものです。逆に戦地から遺骨が戻って来た時にも出迎えに行きましたが、その時には旗はありませんでした。未亡人になった若い女性が白木の箱を胸に抱き、暗い顔をしてたたずんでいたのを今も覚えています。戦死は名誉なこととされていたので、泣くことも許されませんでした。

学校では、毎日朝礼があり、校長先生が明治天皇の御製(天皇が詠まれた和歌など)を朗詠し、生徒達はそれを唱和したものでした。また修身の授業があり、教育勅語も覚えさせられました。今でも諳んじて言えます。天長節(天皇誕生日)や紀元節(神武天皇が即位したとされる日)といった式典もよくありました。他の子供達もそうだったと思いますが、私は心から天皇陛下のために死んでもいい、天皇陛下のために命を捧げるのは当たり前だと信じていました。子供は純粋で、先生が言われることを信じて疑いません。教育とは恐ろしいものです。

私は本を読むのがとても好きだったのですが、学校には全く本がありませんでした。父も童話を買ってくれましたが、もう読んでしまっていました。そこで無人になっていた隣の家に忍び込み、二階にある本棚の本を勝手に読んでいました。その家は、家族全員で満州に移住されていました。小公子や小公女、ピーターパンといった子供向けの本から、小学生には難しいような本まで、片っ端から読みました。久米正雄や佐藤紅緑、菊池寛といった作家の小説も読みました。

1943年、市川小学校(当時は国民学校と呼ばれていた)を卒業し、向原高等女学校に入学しました。女学校では小学校に増して軍国教育がなされるようになりました。軍人勅諭も唱和させられていました。毎日朝礼では、先を尖らせた竹槍で敵を突く練習もしていました。今考えると、竹槍で突く前に敵に銃で撃たれてしまうのに、とおかしくなりますが、当時は真剣そのものでした。配属将校(陸軍の退役将校)と呼ばれる軍人が、月に一度ほど学校を訪れ、軍事教練の指導をしていました。男子の中等教育以上の学校では、配属将校は現役の陸軍将校で、軍事教練は必修科目とされていました。

戦況も押し迫ってくると、国家総動員法(1938年制定)によって、都市部の学生達は建物疎開や工場などに動員され、私たち農村部の女学生もお国のために働かねばなりませんでした。私たちの学校は被服支廠の支部となり、1年生と2年生は毎日校内で裁縫をしていました。3年生以上は呉の兵器廠に動員されていました。講堂や教室にはミシンがずらっと並べられていました。そのミシンには、脚にそれぞれ住所・氏名が書いてあり、ミシンを持っておられた人達が供出されたのだと思いました。書かれていた住所はすべて広島市内でした。当時田舎の人はミシンなど持っていなかったのでしょう。私たち女学生は、毎日そのミシンを使って兵隊さんのための下着などを縫っていました。布はすでに裁断されており、学生達は、縫いやすいように布に折り目をつける人、それにアイロンをかける人、縫う人と分けられ、効率のいい流れ作業でした。

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