河野 キヨ美 Kiyomi Kono

忘れられないし、決して忘れてはいけない

6. 学校へ戻る

はっきりとは覚えていないのですが、9月ごろから学校が再開されたと思います。学校といっても教科書もノートも何もありませんでした。卒業生の家を訪ねて古い教科書を貰ったこともありました。教科書の紙の質は新聞紙のような粗悪なものでした。また新しい民主主義教育にそぐわない箇所は黒く塗りつぶして使いました。教師も人数が足りず、代用教員が多かったと思います。

教科書も教員も何もかも不足していましたが、それでも学校の雰囲気は180度変わりました。それまで長い髪の人は三つ編みにしなければいけませんでした。ところが戦後、髪を短くしても、三つ編みにしなくても誰にも何も言われなくなりました。学校に行くと必ず天皇皇后の写真が安置されている奉安殿という小さな建物に向かってお辞儀をしなければいけませんでしたが、それもなくなりました。また校長先生や先生の話に「天皇陛下」という言葉が出ると「気をつけ!!」と言われ、姿勢を正さなければいけなかったのに、何も言われなくなりました。それまで読んではいけない本や雑誌、見てはいけない映画など細かく決められていましたが、どんな本を読んでもどんな映画を見ても自由なのです。なぜかは分かりませんが、学校でも地元でも頻繁に演芸会が開催されていました。何の娯楽もない時代だったからでしょうか。

戦争中にも映画に行ったことがあります。本当は行ってはいけなかったのですが、友達と行っていました。映画が終わり館内の電灯が点くと、私と友達は足下にもぐって隠れました。学生の取り締まりをしていた先生達に見つからないようにするためです。誰もいなくなったのを見計らって外に出たものです。

9月17日に非常に強い枕崎台風が広島県を襲い、甚大な被害をもたらしました。私が通っていた向原女学校へ行くには芸備線を走る汽車に乗るのですが、それも川の氾濫によって不通になってしまいました。1ヶ月近く不通だったと思いますが、その間、仕方なく家から学校まで12キロの道のりを毎日歩いて往復しました。学校に着いたら昼前だったこともありました。そのころ兵士は除隊になり、みんな故郷に帰っていたのですが、芸備線が動かないために、大勢の兵隊さんが線路に沿って歩いていくのを見ました。

私たちの向原女学校の近くに、向原国民学校がありました。この学校は校舎の一部が陸軍病院になっていました。そこに原爆で負傷された約1000人の兵隊さんが、床に敷かれたムシロに寝かされていました。私たちはおにぎりを配って歩いたり、浴衣を裂いて包帯を作ったり、洗濯をしたりとお手伝いに行っていました。村の人達は死体を焼いたり、焼くための薪を運んだりしていました。ある日、学校から見える階段を一人の気がふれた看護師さんが一日中登ったり降りたりするのが見えました。

赤チンキと 焦げし異臭のただよいて
陸軍病院となりし 学校
病院となる 学校の裏山に
葬りの煙 日ごとのぼりぬ

Share