河野 キヨ美 Kiyomi Kono

忘れられないし、決して忘れてはいけない

7. 結婚と夫の死

私は女学校4年生の時に、教員の資格試験を受けました。当時は科目ごとに合否が決まり、私は音楽だけ合格できませんでした。卒業後三次の洋裁学校に入りました。そこで2年間洋裁を学び、その後2年間小学校で代用教員として働き、1951年、20歳で結婚しました。夫は広島県職員で、広島市内に居住し働いていましたが、私は吉田で大姑、姑、小姑2人という家族の中で嫁として朝から晩まで働きました。農家に生まれ育ったにもかかわらず、農業をやったことがなかったので、慣れない農作業は私にとっては大変辛いものでした。しかし、義姉の姿を見ていましたので、それが当たり前だと思っていました。

慣れぬ農に 涙こぼせば 抱きし児
乳の飲むをやめて われを見上げぬ

結婚 1951年

1952年に長女が生まれ、1956年に次女が生まれました。二人共自宅で産婆さんに来てもらい産みました。長女の時には産婆さんが間に合いませんでした。今では考えられないことですが、当時、自宅で出産するために、妊婦は藁を焼いて灰にしたもので布団を作り、その上で出産する習慣がありました。私も二人をこの藁布団の上で産みました。

次女が生まれた後、私は長く体調がすぐれませんでした。住んでいた吉田にはいい医者がおらず、広島市内に通院していましたが、次女が1歳の時、子供たちを連れて夫の元に引っ越しました。そして1959年に長男が生まれました。長男の時は、広島市内の市民病院で出産しました。当時、入院するときに布団を持参しなければいけませんでした。

そのころ広島は復興ブームの渦中にあり、建築ラッシュが続いていました。1947年に地方自治体法が公布・施行され、広島市の建築事業に県は関われなくなりました。また1949年には広島平和記念都市建設法が公布・施行されました。県職員だった夫は数人の職員と共に市に移り、元々の市職員と共に建築指導課を作りました。忙しい仕事の傍らで、1956年に一級建築士の資格を取りました。ビルの構造計算を得意としていたようです。夜遅くまで机に向かって構造計算をしていた姿を覚えています。1965年には、広島市から原爆ドームの補強方法についての調査依頼を受けた広島大学の佐藤重夫教授らとともに、ドームの保存・補修に関する研究会を発足させました。

ところが、その年の10月、近所の方が、「ご主人が玄関先で倒れておられる。」と知らせてくださいました。すぐに救急車を呼んだのですが、救急隊員の方から、多分だめでしょうと言われました。くも膜下出血でした。それは全くの晴天の霹靂でした。夫は39歳、私が34歳の時でした。でも後で思い起こすと、仕事の忙しさに加え、その少し前に姑が亡くなり、夫は休みになると吉田まで通っていました。また小学3年生の次女は交通事故で足を骨折し、頭部にも外傷を負い、3ヶ月間入院していました。おそらく心身共に疲れがたまっていたのでしょう。

その後、私は市役所の職員として採用され働き始め、1994年に63歳で退職するまで働きました。

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