河野 キヨ美 Kiyomi Kono

忘れられないし、決して忘れてはいけない

8. 二中の生徒達の絵

2003年、私が71歳の時でした。広島市、NHK広島、中国新聞社が共同で「市民が描いた原爆の絵」を募集しました。それは1974~1975年にNHK広島が募集したのに続いて2回目でした。募集のニュースが流れた夜、夢の中に私が日赤病院に姉・緑を探しにいった時目にした二中の生徒達が現れました。まるで「自分たちのことを忘れないで。」「自分たちのことを描いてください。」と私に語りかけているように感じました。私が描いてあげないと、あの子達は誰からも忘れられてしまうのではないか。私がこの子達のことを残してあげなければいけないという思いに突き動かされました。

翌朝、すでに自立して家を出ていた息子の部屋を探すと、ひからびた絵の具が出てきました。それまで一度も絵を習ったこともありませんでした。まず仏壇の前でお経をあげて、「誰にも知られず亡くなっていったあの子たちのことを描かせていただきます。」と祈ってから描き始めました。一人一人描いていくうちに、忘れていたような彼らの様子がよみがえってきました。みんな同じ茶色の国民服を着て、足にはゲートルを巻いていました。服には名札が縫い付けてありました。ほんとうは、服はもっとボロボロだったし、顔も汚れていました。けれども私はみんなの顔を観音様のように穏やかに描いてあげました。服もきれいに描いてあげました。まるで二中の子供達の魂が私を動かして描かせてくれた絵のように思います。私は、親たちが探しに来て自宅につれて帰ってもらうこともなく、その夜のうちに日赤病院の裏で焼かれてしまったこの子供たちがいたことを、どうしても残してあげたいという思いだけで描きました。

この絵が、この前年2002年に「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」を立ち上げられた脚本家の早坂暁氏の目にとまりました。この会によって、NHKの二度にわたる募集に寄せられた市民が描いた原爆の絵約3600枚の中から10数枚が選ばれました。そして陶板にされ、絵に描かれた場所に設置されました。私の絵は2005年8月6日に9カ所目の絵碑として日赤病院の玄関横に設置されました。私も除幕式に参列しました。

二中生徒の絵碑 日赤病院横

2007年の夏、何の連絡もなく、突然早坂さんと出版者の人が菓子折を持って我が家を訪ねてこられました。そして私の被爆体験を絵本にしたいと言われたのです。私は絵を描いたのは、71歳になって初めてでしたし、最初は強くお断りしていました。しかし遠方から暑い中おいでくださったお二人の気持ちを思い、お受けすることにしました。それから何度も絵の進捗状況を確かめるためにおいでになりました。そして素人が描いた未熟な絵ばかりですが、2008年に絵本「あの日を、わたしは忘れない」を出版してくださいました。

それまで仕事、家事、子育てと日々奔走していましたので、原爆について語ることもありませんでしたが、早坂さんの関係者からも被爆体験の話を聞きたいという依頼がくるようになり、大阪や長野まで出かけるようになりました。また海外からも依頼されました。2010年、あと2人の被爆者とそれぞれの通訳者と共に6人で、アメリカのミズーリ州立中央大学に招待され、お話をさせていただきました。

2013年にはワールド・フレンドシップ・センターからPAX(平和使節交換プログラム)の一員として、3週間かけてワシントン州、オレゴン州、アイダホ州、ニューメキシコ州などをまわりました。各地で幼稚園から大学まで、また教会や集会所などで被爆証言をしました。またワシントン州では、長崎に投下された原爆の原料となったプルトニウムを精製したハンフォード核施設を訪問しました。ガイドさんの「コンピューターもない時代に、原子炉を制御する施設を作った。福島では電源を喪失してメルトダウンを起こしたが、ここでは当時から電源喪失に備えてバックアップが完備していた。」という説明を聞き、同じ戦時中に、日本では私たちのような女学生が竹槍で敵を突く訓練をしている時に、アメリカではこんな施設を作っていたのかと驚くばかりでした。

アイダホ州では、第二次大戦中に日系人1万人以上が収容されていたミニドカ収容所を訪れました。私の叔母も移民で収容所に入れられたと聞きましたが、本人は何も語らず亡くなりました。この旅で収容所の暮らしなどを聞き、初めて日系人が辿ってきた過酷な生活を知ることができました。ニューメキシコ州では、かつてマンハッタン計画の一環として原爆開発を担った研究所があるロスアラモスを訪れました。そこにあるアシュレイ池の畔に原爆の成功を祝うオッペンハイマー博士らが満面の笑みを浮かべた碑が建っていました。

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