河野 キヨ美 Kiyomi Kono

忘れられないし、決して忘れてはいけない

2. 1945年8月6日

このころには、軍人となった利勝は戦地に、澄子はすでに嫁いでおり、緑は看護師になり寄宿舎に入り日赤病院で働いていました。家には両親と女学校2年生の私と、小学生の弟三彦と、都会は空襲の危険があるからと1年ほど前から我が家に疎開していた澄子の子勝也(3歳)の5人がいました。

8月6日は、両親は動員されていて留守でした。動員先は吉田(現・安芸高田市)で、隣組の人達と一緒に特攻隊基地の建設に従事していました。吉田では、6月下旬から秘密裏に海軍航空隊可部基地の建設をしていました。5月末に沖縄の首里司令部が陥落し、6月23日に牛島満司令官が自決すると、いよいよ本土決戦に備えなければならないと、急遽特攻機の基地を建設していたのです。近隣の市町村からのべ15万人が動員され、近くの寺や民家に宿泊しながら突貫で工事をしていたそうです。吉田は私たちの村から20数キロ離れていましたが、隣組の人達がみんな揃って真夜中に出発して歩いて行きました。私は両親がいないので、甥の世話をするため学校を休んでおり、家には弟と甥と3人だけが残っていました。

弟は朝早くからどこかに遊びに行っていて、私が甥にご飯を食べさせていると、突然ドカーンともキーンともバーンとも聞こえる、何か金属音が混じったような大きな音がしました。驚いて裸足のまま外に出ました。あまりに大きな音だったので、自宅の近くに爆弾が落とされたのかと思いました。しばらくすると音もなく広島市中心部からモクモクと煙が立ち始めるのが見えました。普通、煙は白いものなのに、その大きな煙は薄茶色でした。そしてまたたくまに上部が横に広がり、キノコ雲になりました。私は火薬工場か何かが爆発したのかと思いました。よく広島の人は「ピカドン」と原爆を表現しますが、私は、家の奥にいたため光は見ませんでした。

家の前には国鉄の芸備線が走っていて、ほぼ1時間に1本汽車が走っていました。だから我が家では時計がなくても、汽車が通る音でそろそろ学校に行く時間だとか、ご飯の支度をする時間だとかが分かっていました。ところがその日は朝から1本の汽車も走っていませんでした。夕方になって初めて汽車が家から歩いて30分ほどの志和口駅にやってきました。その汽車には大勢の火傷やケガをした人達が乗っていたそうです。むごい姿をした大勢の人達が口々に「広島に大きな爆弾が落とされた。」「広島は全滅した。」と言っているのを聞き、噂はあっという間に村中に広がりました。当時、日本が攻撃されたなどの否定的な内容の話は、どこで憲兵に監視されているか分かりませんから大きな声で言えず、人々はひそひそと爆撃の噂をするしかありませんでした。それでもほとんどの家で家族の誰かが広島市内の学校や職場に通っていましたから、村ではあっという間に噂が広まっていったのです。

「広島は全滅らしい」 ひそひそと
ささやく声が 闇にひろがる

両親は夜遅く動員先の吉田から帰ってきました。近所の人達の「広島に大きな爆弾が落ちて、広島は壊滅した。大勢のケガ人が汽車で運ばれてきている。」という話を聞き、父は駅に見に行きました。そして駅から降りてきた人達を見てびっくりしたそうです。みんな服もボロボロで半裸状態、体中血だらけだったそうです。そして口々に広島の人はみんな死んだと言うのです。帰宅後、父は私に「自分は村の仕事で忙しいから行けないが、明日お母さんと一緒に、澄子と緑を探しに行きなさい。」と言いました。澄子は結婚して宇品(現・南区宇品)に住んでいましたし、緑の勤める日赤病院は千田町(現・南区千田町)にありました。

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