河野 キヨ美 Kiyomi Kono

忘れられないし、決して忘れてはいけない

3. 8月7日

朝、近所の下岸さんのおばさんと息子さんと母と私の4人で朝一番の広島行きの汽車に乗り込みました。下岸さんはお姉さんが市内中心部にある大手町に住んでおられました。また息子さんは広島市立工業高校に通っておられ、広島の地理に詳しいからと一緒に来られました。(実際彼のお陰で迷うことなく市内を歩くことができました。)

汽車は6~7両編成でしたが、家族や友人を探しに行く人々でいっぱいでした。みんな茶色い国民服を着ていました。汽車はゆっくりと走ったり、途中で止まったりして、いつもの倍の約2時間かけて矢賀駅に到着しました。そしてここから先には行けないということで、全員下ろされました。プラットホームに降り立つと、ひどい悪臭がして息が詰まりそうでした。驚いたことに、今まで矢賀駅から見えたことがない、広島市内が一望できました。市内全域が真っ黒な焼け野原で、あちこちで煙がくすぶっていました。その焼け野原の向こうに緑色の似島が見えたのです。乗客は全員そこから歩いて広島市内に行かなければなりませんでした。

矢賀駅から市内に向かう道は人であふれ、後ろから「早く行け!」と押されるほどでした。私たちとは逆に広島から反対方向を目指している人々を見ると、人間とは思えないような形相をした人々が、髪の毛はぼさぼさに逆立ち、腕を前に突き出し、肩から剥がれた皮膚が指先から垂れ下がり、幽霊のような姿でゾロリゾロリと、まるで沸いて出てくるように途切れることなく歩いていました。私は気味が悪いので見ないように歩きました。

ようやく市内中心部に入ると、狭い道路の瓦礫の上に、ごろごろと死体が転がっていました。熱線に焼かれた人間の体は、2倍にも3倍にも膨らんで赤鬼のようでした。男か女かもわかりません。仰向けの死体から目玉が流れ出てゼリーのような中に、黒い目玉がありました。死体の横腹が破れて内臓が流れ出し、卵焼きのような黄色になっていました。手や足を宙に伸ばし、何かを掴もうとしているかのような死体もありました。飛び出した舌が、黒こげの三角形に長く伸びていた死体も見ました。炭の棒のような死体もありました。歩くのにうっかりして死体を踏みそうになり、怖くて怖くて母にしがみついて歩きました。今でも死体につまずいた時のぶよぶよした感覚がつま先にのこっています。

比治山橋を渡り、大手町を目指しました。比治山橋の両側には、川から引揚げられた死体がずらっと並べられていて、その上にコモ(ムシロ)がかけられていました。その下から「助けてください!兵隊さん、水を!水を!誰か水を飲ませてください!」というか細い女の人の声が聞こえてきました。けれども私たちは何もせずに、そのまま通り過ぎました。水を飲ませたら死んでしまうと教えられていたからです。

下岸さんのお姉さんの家は完全にガレキになっていましたが、台所があったと思われるあたりからは、まだ煙が出ているのが見えました。その後、母と私は姉の緑が働いていた日赤病院のある千田町に向かいました。姉はそこで看護師をしていました。日赤病院に足を踏み入れると、コンクリートの床は足の踏み場もないほど大勢の怪我人であふれ、「いたいよぉ~。」「助けてください!」「お医者さん、はよぉ~。」「おかあさん、くるしいよ~。」と叫んでいました。その声がコンクリート造りの壁や天井に反響して増幅し、うぉ~ん、うぉ~んと聞こえるのです。断末魔の叫びとはこういうことかと思いました。その声と臭いは今でも忘れることはできません。

ガラス刺さり 血まみれの人ら
日赤の コンクリートの床に のたうちていし

ちょうど看護師さんがおられたので、母が姉の消息を聞いてみたところ、偶然姉をよく知っている方で、「緑さんは似島に運ばれましたよ。」と教えてくださいました。姉は原爆の10日ほど前に病院で流行った赤痢にかかり、隔離病棟に入れられていたそうです。原爆でその病棟が倒壊し、建物の下敷きになっていたところを運良く入院中の兵隊さんに引っ張り出され無事だったということでした。とりあえず無事が確認できてほっと胸をなで下ろしました。

後で聞いた話では、緑は窓際のベッドにいたので、ガレキに火が燃え移る前に辛うじて助け出されましたが、同じ病室で廊下側にいた2人は、救助が間に合わなかったそうです。隔離病棟は姉が助け出された後すぐに全焼してしまったので、その二人は生きたまま焼かれて亡くなられたかもしれません。緑は着ていたゆかたのまま宇品の澄子の家を目指しました。裸足だったので、途中、山中女学校の傍に落ちていた下駄を拾い履いたそうです。そして救援活動をしていた暁部隊(陸軍船舶司令部)のトラックに拾われ、他の負傷者と一緒に似島に連れて行かれたということでした。

爆心地から1.5キロにあった日赤病院では鉄筋コンクリート造りの本館は倒壊を免れたものの大破し、木造の隔離病棟は全焼しました。医師、看護師、職員69名と患者5名が犠牲になられました。原爆投下直後から多くの負傷者が救護を求めて集まり、22日間で3万人以上が手当を受けました。(岩波書店「原爆の絵」参照)

病院から外に出ると、丸い花壇にあどけない顔をした中学生らしき国民服にゲートルを巻いた少年の死体がきれいに放射状に並べてありました。私と同じ年頃の子たちだったので印象に残っています。あとで聞いたところでは、現在の平和公園の西側を流れる本川の川岸で建物疎開のために動員され、朝礼のために整列していた広島第二中学校(以降、二中)の1年生だったそうです。建物疎開というのは、空襲があった時、さらなる延焼を防いだり、重要な施設が焼けたりしないようにその周りの家や建物を壊し、空き地を作ることです。彼らはこの日の夜、親族に見守られることもなく病院の裏で焼かれたと聞いています。この学校では生徒344人、教職員8人が原爆によって亡くなられました。

名札みな 広島二中と書きてあり
いくばくの骨 母に抱かれし

日赤病院を後にし、御幸橋を渡り、宇品にあるもう一人の姉・澄子の家を目指しました。御幸橋では大勢の人が橋の上から下を覗いていました。欄干は爆風で吹き飛ばされてなくなっていました。私たちも下を流れる京橋川に目をやると、数えられないほどの死体が、川を流れるでもなく、プカプカと浮き漂っているのが見えました。死体はほとんど裸で、横を向いている人、うつむいている人様々でした。また髪の毛が長い人は、その髪が顔の周りに広がっていました。橋桁に地下足袋を履いたままの足首がひっかかり、ゆらゆら揺れている人もいました。なぜかみんな真っ白でした。驚いたことに御幸橋の手前は火災で真っ黒な焼け野原になっていたのに、橋を挟んで反対側の町では家々は、傾いていたり、窓が壊れていたり、屋根が落ちていたりなど半壊しながらも火災は免れたようでした。川を挟んで景色が全く違っていたのです。

私たちは、広島電鉄の宇品線が通っている幹線道路沿いに南に向かいました。澄子の婚家は宇品の神田神社を過ぎたところにありました。(爆心地から約4km)家は傾き、屋根や窓が壊れていましたが、家族が寝起きすることはできました。澄子は家にいて無事でした。母は澄子が無事なのを見て、「澄子や~。あんた、よう生きとったのぉ。うれしい。うれしい。」と涙を流して喜んでいました。広島電鉄に勤めていた澄子の夫は職場で建物の下敷きになり大ケガをしていました。中学生の義弟は動員先で被爆し、全身大火傷をおっていました。澄子は傷口にわいたウジ虫を一つずつ箸で取ってやっていました。私たちは長居することもできず、1時間ほどで来た道を戻ることにしました。

再び御幸橋を渡り、電車通り沿いに歩きました。道路には人間や馬の死体がゴロゴロころがっていました。暁部隊の兵士たちが死体を回収し、空き地に、まるで丸太を積み上げるように次々に積んでいました。そして20~30体積み上げては油をかけ、燃やしていました。母はそれを見て、「気の毒なことじゃねえ。いとおしいことよのぉ。」と何度もつぶやいていました。

中心部に近づくと何台かの脱線した真っ黒な電車がありました。紙屋町近くの一台にふと目をやってみると、つり革に真っ黒な炭になった手がいくつもぶら下がっていました。私は息が止まりそうになりました。白神社の近くでは、二倍くらい大きく膨れあがった馬が倒れて死んでいました。

被爆後何十年も経ってから、私の描いたこの場面の絵を見たある男性から電話がありました。「私も炭になってつり革にぶら下がっている手を見ました。床にはたくさんの頭蓋骨がきれいなピンク色で光っていましたね。」と言われました。しかし、私は窓から見えるぶら下がった手を見ただけで、床に転がっていた頭蓋骨までは見ていませんでした。また当日焼けた電車は23両あったそうで、その人が見た電車と私が見た電車が同じだったのかどうかはわかりません。

午前中はむごい光景を見る度に涙が出ていましたが、午後になると死体を見ても何の感情も沸かず涙も出なくなりました。ようやく福屋デパートに辿り着きましたが、デパートの中は真っ黒に焼けていて外壁だけになっていて、その周りの路上には死体が2重にも3重にも並べられていました。デパートの近くでは、50~60人の何のケガも火傷もしていないのに、顔は土気色で虫の息になった兵士達がしゃがみ込んでいました。私はその中の一人と目が合ってしまいました。何か言いたげなそのまなざしを今でも忘れることはできません。長い間、デパートの周りで亡くなられていた兵隊さん達は、怪我や火傷もしていないのになぜ亡くなったのか疑問に思っていましたが、あとになってようやく放射線を浴びたからだと理解できました。

私はこのあたりから、どこをどのように歩いて駅に辿り着き、汽車に乗って帰宅したのか、何も覚えていません。今もその間の記憶がすっかり飛んでしまっています。母と私はこうして一日中、そうとは知らずに残留放射能が残る広島市内中心部を歩き回ったのです。

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