河野 キヨ美 Kiyomi Kono

忘れられないし、決して忘れてはいけない

4. 被爆後

原爆投下の3日後に仲良しだった隣の文子ちゃんが親類の人に探し出されて、ガラスが全身に刺さったまま、戸板に乗せられて帰ってきました。文子ちゃんは私の1級上で、広島の保健婦の養成所に通っていました。医者も薬もなく何の手当てもできませんでした。数日後、近所のおばさんが私を呼びに来ました。私は大急ぎで文子ちゃんの枕元に行くと、熱が高く苦しい中、 彼女は周りの人たちに、ひとりずつお別れの言葉を残していました。お母さんには、「お母さん、文子はもう直ぐ死にます。私のお墓の周りには、たくさん花を植えてください。お母さんは日本一のお母さんでした。」おばあさんには、「おばあちゃん、急いで下駄を履かないで、急ぐと転ぶから。」そして私に向っては「キヨ美ちゃん、学校に行ったら先生方に、文子は母校の発展を祈りながら死んだと伝えてね。」と話しました。みんな、泣きながら頷くばかりでした。文子ちゃんは、その数日後に亡くなりました。

また入市後何日かして、私は頭や顔や手に湿疹ができました。直接被爆はしていませんが、原爆投下の翌日に市内の中心部を歩き回ったために残留放射能によって被曝したのでしょう。しかし当時は広島に落とされたのが原爆であったことも、放射能によって数々の病気が引き起こされることも誰も知りませんでした。広島の病院は全滅していたので、心配した父が三次の病院まで汽車で連れて行ってくれました。そこでは栄養が足りないのではと言われました。そして髪を丸坊主に刈り、真っ白にチンク油を塗って包帯を巻いてくれました。学校に戻った時に通学の汽車に乗るのにとても恥ずかしかったことを覚えています。学校では、級友達がみな気持ち悪がって、誰も傍に近づこうとしませんでした。この症状は約1年間続きました。母は、よく貧血を起こして倒れていました。目眩がして階段から落ちたこともありました。しかしそれ以外には医者に通うほどの後遺症はでませんでしたが、とても我慢強い人だったので、ほんとうのことは分かりません。母は63歳の時、胃がんで亡くなりました。

当時家には電灯が一つしか無く、また街灯もありません。夜はその電灯を消すと家中が真っ暗になります。真っ暗な部屋の畳の上には死体が並べられていているような気がして、夜になるのが本当に怖かったです。臭いや光景を思い出して、いたたまれなくなって家を飛び出したこともありました。そのような状態が数ヶ月間続きました。

8月15日に玉音放送があり、村の人達が我が家に集まり、みんなでラジオに耳を傾けました。すると1人の男性が、「女の子は髪を切って山に隠さにゃいけんのぉ」と言いました。当時は何のことか分かりませんでしたが、今になって思えば、戦争中、日本軍が占領した国々でやってきたことを、日本が占領された時には米兵から同様にやられるのではないかと思ったのでしょう。私は戦争が終わると聞いて、時代が変わるのが嬉しかったです。

その10日後くらいに村の人達が宇品の糧秣廠(陸軍の食料品の保管、補給、製造などをしていた部署)に行けば塩があるかもしれないと、大八車を曳いて宇品まで行きました。戦争中塩は配給で、戦争が終わった途端配給がなくなり、田舎では採れた野菜を漬ける塩がなく困っていました。糧秣廠には他の食品などは何も残っていませんでしたが、焦げた塩だけは山積みで残っていたそうです。大八車にいっぱい塩を載せて帰ってきました。しかし、それを使って漬けた漬け物は焦げ臭かったそうです。

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