河野 キヨ美 Kiyomi Kono

忘れられないし、決して忘れてはいけない

5. 家族のその後

被爆後一週間ほど経ったころ、澄子が赤ちゃんを連れて我が家に帰ってきました。 澄子の一家は、原爆投下当日の夜、再び空襲があるかも分からないからと水辺に近い元宇品で野宿をしたそうです。そのため赤ちゃんは肺炎にかかっていました。元々食糧難で栄養失調も重なっていたのでしょう。寝かせるとぜいぜいと息が苦しくなるので、澄子は常にだっこしていました。澄子自身も放射能の影響からか髪の毛が抜け、歯茎から出血していました。それでも昼も夜も座った姿勢で抱いていましたが、8月18日、とうとう赤ちゃんは姉の膝の上で亡くなりました。痩せ細った澄子が蚊帳の中で24時間赤ちゃんを抱いている姿は、まるで幽霊のように見えました。

澄子はその後も下痢が続き、体がふらふらして力が入らず、貧血もあり、回復するまで約1年我が家で過ごしました。全身大ケガを負った澄子の夫も1年ほど体調がすぐれず休職していました。そして半年ほど我が家で療養していました。

緑は似島に運ばれた数日後、日赤の事務長が衣服を持って迎えに来られたそうです。原爆で大勢の医療従事者が亡くなってしまい、1人でも動ける人が必要だったのでしょう。緑は日赤に戻り仕事に復帰しましたが、心配した父が迎えに行き、家に帰ってきました。赤痢の後遺症からか、緑はげっそりと痩せてしまっていました。ところが11月ごろにはまた日赤から戻ってきてほしいという連絡がありました。まだ体も万全ではなく、父も反対したのですが、緑は使命感から病院へ戻っていきました。

利勝は、18歳で軍に志願し職業軍人になり、中支、南支、北支(現在の中国)、マレー半島、ニューギニアと転戦していましたが、ニューギニアでマラリアに罹り、フィリピンの病院に送られました。終戦後米軍の捕虜となり、翌年復員しました。ある日、道で兄の姿を見つけた父は駆け寄り、二人は抱きあって涙を流していました。しかし、戻ってからもマラリアの後遺症で、時々けいれん発作を起こし、母が布団をかけて上に乗って押さえつけていました。戦後、元軍人は疎まれ、なかなか就職することもできませんでした。また就職しても、長い軍隊生活で身についた軍人気質が抜けず、一つの会社に長続きせず、転職を繰り返しました。

利勝はフィリピンでの入院中に知り合った静岡県の伊豆半島出身の看護師さんと結婚の約束をしていました。しかし、兄は遠くまで行けず、父が代わって静岡まで出向き、正式にご家族に挨拶をし、彼女を伴って広島に帰ってきました。義姉は誰一人知り合いもいない遠い田舎に嫁ぎ、大変苦労したと思います。当時、私が住んでいた地域では、嫁を貰うことを「てまをもらう」と言っていました。働き手が来たという意味です。女性は労働力として見られていたのでしょう。

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