寄稿

「核の脅威が日々拡大するのはなぜか」C.G.ウィーラマントリー

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1945年8月6日、9日:この運命の両日、とてつもない恐怖の“瞬時”が人間の歴史の方向を永久に変えてしまった。広島、長崎に配達された死と破壊を凝縮した“小包”は、戦に血ぬられた長い人類史上においても比類なきものであった。このようなことは今だかつて起きたことがなく、再び起これば人類の織り成す文明の存続はありえない。

この二度の“瞬時”は、その時以後戦争は永久に紛争解決の手段たりえなくなったというメッセージを全人類に示した。子どもにさえ分かるそのメッセージが権力の中枢には浸透していない。その権力中枢は未だに、自己利害、外交、軍事力、中でも主要素としての軍事力に大きく基づいて機能している。その軍事力の中でも核兵器は最も重要な構成要素となってしまった。

あのような破壊行為は歴史的視野に立って検証してみる必要がある。
中世の最も残忍な征服者の一人とされているジンギスカンはかつてこう言い放った。

「吾が行く手をさえぎる者、すべからく倒してくれん。人っ子一人、犬猫、生き物の影ちらりとも吾に刃向かうものあらばその地に生かしておくものではない」。

そして彼はこの脅しどおりのことを実行したが、それでもあの二度の運命の“瞬時”の破壊の規模には遠く及ばない。ジンギスカンが、全てをなぎ倒し生命を奪い尽くすためになし得たどんなことをも現代のテクノロジーは遥かに超えてしまったからだ。いまや人間破壊の新しい基準が出来てしまった。皮肉にも、人道的で礼儀にかなった戦争のルール遵守を重視する国々が、この新基準を超える力を持とうと互いに競いあっている。

ジンギスカン以来今日に至るまで、破壊の術は進歩し続けてきた。よく考えてみれば、その間幾世紀、文明がこの異常な軍事力に道徳的、あるいは法的な歯止めを何一つかけることが出来ないで来たことは驚くばかりである。このことは特に注目に値する。計り知れない苦しみをもたらしたその爆弾の威力が二度までも、人口の密集した活気あふれる都市の人間の上に示され、その結果は今世界中が広島・長崎で目にする通りである。

あの二度にわたる恐怖の“瞬時”がそれぞれ何十万という人間に及ぼした強烈な苦しみや被害は、どんな表現をもってしても表し得ない。この二つの“瞬時”は、過去何千年もの歴史の中でも破壊の最たるものであり、限りなく未来にまで影響を及ぼし子々孫々に予測もつかない損害を与えてしまった。また、目的の為に手段が正当化されるならば、人間が人間に及ぼす如何なる害も止められないことを未来の世代へ示した。またそれは、有効な法的、道徳的歯止めが絶対に必要であるとの宣言でもあった。さらに、ケネディ大統領がいみじくも言ったごとく「人類は戦争をなくさなければならない。さもなければ戦争が人類を消滅させるだろう。」ということを人類に警告している。

ケネディ大統領は明らかに核の力という文脈においてこうした観察をしていたのだ。核兵器がただ一国の独占ではない時代にあっては、時、所を問わず、その使用によって我々がハルマゲドンに向かって坂を転げ落ちることになるのは自明の理である。ある兵器を使用すれば、同種の兵器による報復を招く。従って核兵器が飛び交うと、文明は終わる。

この60年、被爆後生き残った人達は命を蝕みつづけたケロイドの引きつり、放射線障害、何十年にも及ぶ心の痛手のなかで懸命に生き延びてこられた。彼等は決然と「ノーモア ヒロシマ」、「ノーモアナガサキ」を命にかけて誓っている人たちである。核戦争が実際どんなものか誰よりも良く分かっている被爆者の、苦しみの深淵から聞こえてくるその声にはしっかり耳を傾けねばならない。

広島や長崎の原爆資料館を訪れ、熱心に学んだ人たちの記憶の中には核の惨劇がしっかりと刻まれる。

さらなる核兵器使用阻止の成否を最終的には左右しうる世界中の大多数の人々が、身をあぶられるようなこの学習を共有していないのは全く残念なことである。

一般の人々にはこうした見方が欠如しており、どんな出来事でもそれが時間的に、地理的に遠くで起こった場合、直接には関係のない事としてしまいがちである。ことに、アメリカや西ヨーロッパの人たちは、もし核爆弾が隣町で爆発して何十万という人が瞬時に死亡し、生き残っても将来何世代にもわたる遺伝的異常があり苦しみが長期にわたるとしたら自分たちはどう反応したであろうか、と考えてみる事などほとんどない。たとえ戦時であっても、これが仮に自分自身の町で起こったとすれば、怒り、憎しみ、生涯悪感情を持ちつづける、という反応も当然のことと思ったはずだ。これは文明のいかなる規範にも反している、と考えるはずだ。
しかし、原爆投下は決死の敵を相手にした激しい戦争の最中に、遥か遠くの日本で起こったことである。

「その爆弾で多くの命が救われた」、「使用したことを後悔する理由はない」、こうした考えは、この経験(原爆投下)が今や遠い過去の出来事となったこともあって問題を漠然とさせ、有史以来人間が作り出した最大の危険に対して問題意識もなく、無関心な態度を生み出しているのである。

核兵器の特異性

大量破壊兵器の中でも核兵器は特異なものである。その理由は数多くあるが、どの理由にもそれぞれ核兵器の持つ特異性が十分に示されている。
その特異性とは、以下のようなものである。

  1. かつて類を見ないような大規模な死と破壊をもたらす。広島では、投下直後およびその数ヶ月後までに合わせて14万人の人が亡くなり、現在までに推定23万人の人が亡くなっている。長崎では即死3万9千人、現在までに10万人の犠牲者の死亡が推定されている。
  2.  先天性の奇形、知的障害、その他何世代にもわたる遺伝子障害を引き起こす。
  3.  「核の冬」と呼ばれる状態が起る可能性がある。太陽光線は遮断され、酷寒と暗黒が地球を広範囲にわたって支配する。地球規模で農作物の成長が妨げられる。
  4.  現在だけでなく、今後何世代にもわたって環境破壊を起こす。
  5.  食物連鎖の汚染、破壊が起こる。
  6.  複合的に医学上の影響をもたらし、癌、白血病、ケロイド、その他胃腸、心臓などの疾患が発生する。
  7.  一旦使用されると何十年もの間、前述の健康上の問題を継続して引き起こす。
  8.  生態系を危険にさらす。
  9.  致死レベルの熱と爆風を生じる。
  10.  放射線や放射性降下物を発生する。
  11.  破壊力を持つ電磁波を生みだし、通信網を遮断し、電子機器はすべて不能となり、有機生命の破壊を引き起こす。
  12.  核兵器による放射能汚染の影響は何千年にも及ぶ。核兵器の副産物の一つであるプルトニウム239の半減期は約2万年である。放射能の強さが少なくなるには半減期の数倍の期間を経ることが必要である。
  13.  社会的崩壊を引き起こす。
  14.  将来何世代にもわたって、修復不能なまでに人権を侵害する。
  15.  すべての文明を破壊し、人間の生存を脅かす。
  16.  多数の一般市民が犠牲者になる。
  17.  戦争当事国でない近隣諸国にも同様の被害を与える。
  18.  犠牲者に生涯にわたる心理的ストレスや恐怖を与える。
  19.  歴史的に価値のある遺跡や文献や芸術作品を破壊して、文化的壊滅を引き起す。

核兵器の残虐性

核時代に入って初めて使われた核被害に関する証言記録がある。これはまぎれもなく、被爆地のあらゆる場所で一瞬にして起った何百もの凄惨な場面の一つであり、現在その多くが文献として収録されている。犠牲者は非戦闘員であった。
「それは身の毛もよだつような光景であった。傷を負った数多くの人たちが山の方に向かって私の家の前を逃げて行った。
その光景は見るに耐えないものであった。顔や手は焼けて膨れ上がっていた。皮膚ははがれ、まるでかかしが着ているぼろ布のように垂れ下がっていた。みんなアリの行列のようにぞろぞろと通り過ぎて行った。一晩中そんな人たちがひきもきらず私の家の前を通って行ったが、朝になってみると人の動きは絶えていた。みんな道路の両側に折り重なるように倒れ、死体の上を踏んで歩くほかないような有様であった。しかもみんな顔がないのだ。目も鼻も口も焼けて無くなり、耳は溶けてなくなったかのようだった。前も後ろも分らない。
ある兵士はやけどでつぶされて形もとどめなくなった顔に白い歯が突き出していた。彼は水が飲みたいと言ったが、私は持っていなかった。(私は手を合わせ彼に向かって頭を下げた。彼はもうそれ以上何も言わなかった。)水がほしいと言った言葉がおそらく彼の最後の言葉だっただろう。」
これを千倍、いや、百万倍しても、核戦争がもたらす惨劇のほんの一部さえも描き切れないのではないだろうか?

膨大な数の文献は、核兵器が引き起した凄惨な出来事について詳細に述べている。—-
一瞬にして黒こげになった死体、爆心地から何マイルも離れた場所で生じた身体的障害。癌や白血病などいつまでも癒されることのない後障害、人間の尊厳を脅かす健康破壊と遺伝的障害、人間の居住地を危険に陥れる環境破壊、人間社会を土台から突き崩すほどの社会機構の壊滅。
広島の被爆と、その3日後に起った長崎の被爆の体験は、それぞれ単独に起った出来事であった。これらの出来事からは、今日の核戦争では避けることの出来ない、連鎖的に起る大量の核被害についてはほとんど分からない。さらに60年が経過し、広島、長崎に落とされた原爆の70倍、いや700倍の威力のある爆弾を持つ時代になった。今や、一発の爆弾が広島、長崎の数倍の惨事を引き起す可能性がある。ましてそれが何発も継続して炸裂するとなれば・・・

核兵器の違法性

核兵器は国際法によって100年以上にわたり解決の道を模索してきたあらゆる人道の法則に違反している。これら人道の法則は数多くの戦争を経て、何百万人の生命を犠牲にして初めて確立された。それ故大切に、敬意をもって扱われなくてはならない。

人道の法則:

  • 一般市民の無差別殺戮の禁止
  • 残酷かつ不必要な苦痛を与えることの禁止
  • 大量殺戮の禁止
  • 環境破壊の禁止
  • 多世代にわたる損傷の禁止
  • 有害ガス及び類似物質使用の禁止
  • 中立国に対する損壊の禁止
  • 共存、協力(体勢)への復帰を妨害することの禁止
  • 病院及び礼拝所に対する損壊の禁止

人道の法則はいわゆる「文明国家」間の戦争行為を規制するものとして長年認識されてきた。1899年に、「拡大弾に関するハーグ宣言」では、ダムダム弾はあまりに残忍な兵器であるとして、近代戦での使用を禁じた。ダムダム弾は人間の体内に入ると直ちに爆発し、その結果被害者の苦しみを増大させる銃弾である。当時のすべての「文明国」はダムダム弾の使用禁止に同意した。

しかし今日、住人もろとも街中を焼き尽くす核兵器が合法的であると主張する国家はこれらの「文明国」の中にも存在する。誰の眼にもその不条理性は明らかである。

核の脅威の即時性

一般に信じられていることとは相反して、核兵器の脅威は増大しており、実際には決して減少していないという事実を、世界の人々に警告することをこの小冊子は目的としている。核兵器使用の可能性は日々高まっており、この災いを世界からなくすための有効な行動を起こすにはむしろ遅すぎるともいえよう。

あらゆる国の人々は、いつかどこかで誰かによって核爆弾が使用される危険性があるという意識を喚起される必要がある。戦闘中、あるいはテロリストの攻撃で、もしくは民族紛争の最中に使用されることがあるかもしれない。いったん使用されれば、どのような事態が起こるか予測ができず、エスカレートしていく可能性は極めて高まるために、全世界の状況は限りなく変化することになる。広島や長崎の場合のように、一発の核兵器で始まり、そして終わってしまうその場限りの出来事とはならないであろうということは確実である。

一般的に認識はされていないが、現在、世界の状況は核の脅威を阻止しようとするよりも、むしろ助長しようとしている。遠い将来どこか遠い所で起こるかもしれない脅威ではなく、確実に身近に迫りつつある脅威となるのである。世界のどこか遠い所ではなく、市場でも、あるいは公共の広場でも、また私達の家の近所のどのような場所でも起り得る。その危険性は測り知れないほど巨大で、まるでドラマの中のきわめて恐ろしい亡霊のように、私達に迫ってきている。注目すべきことは、人類に対して、そしてまさに文明全体に対して脅威となっているこのような危険を回避するための効果的な手段を講じている人たちが極めて少ないということである。一般市民の間でも、また関心を持った市民の間でさえもそうなのである。

殆ど日毎にその危険性が増している時、この恐ろしい亡霊の巨大化を抑えることは私達の手中にあるのに、あえて何の行動も起こそうとしていないのは明らかである。行動を起こさなければ、無頓着な国際社会から眼に見える抵抗に遭うこともない。「悪人の悪行よりも、善人が善意を持ちながらも行動しないことの方が罪の代償が高い」という警句ほどこの状況をうまく表現しているものは他にない。

核時代の「神話」

誰でも多かれ少なかれ核時代の「神話」によって洗脳されている。
「広島を見よ!長崎を見よ! この二つの町は灰燼に帰したが、その町が如何に核攻撃による廃虚の中から意気揚々と立ち上がってきたか学ばなければならない!」
ここでまた核兵器の存在が世界から核戦争を抑止してきたという「神話」を聞かされる。また核兵器を使うことなく60年近く過ごしてきたという「神話」も聞かされる。
「核兵器自体が他者による核兵器の使用を抑止している!これがどんなに上手く機能してきたかを見てみよ!」
ここでまた核兵器の使用の決定は、責任を負っている政治家による然るべき審議なしには決して行われることはないという「神話」も聞かされる。
「だからこれも核兵器の取扱いが責任をもって行われていることを示しているのだ!」

「悲観論者やデマを飛ばして恐怖を煽る人たちは核兵器がいつでも使用される可能性があるという見解を展開してきたが、現実は、恐怖を煽る者たちの言うこととは全く逆ではないか!現実の世界に無知で、純粋に理想的根拠から核兵器を非難するユートピア論者に惑わされるな!」
さらに彼らは次のように論じている。核抑止のための核兵器保有は、他国の使用を阻んできた大きな要因であったために、核兵器は疑いもなく有益である。もしも核保有国が核兵器を保有していなかったならば、攻撃を受けていたであろう。しかし核兵器保有のお陰でこのような大惨事を免れてきた。国際原子力機関(IAEA)が核廃棄物を監視しており、このような監視制度のおかげで核兵器製造用の核物質は入手不可能であると言われている。もしもどこかの国が道を踏み外したとしても、正しい道に連れ戻すことは可能であろう。そしてイラクは一例として引き合いに出されるかもしれない。

核保有国は当初の5カ国同様、その管理保管に責任のある国家である(現在はインドとパキスタンがその核クラブに加わって7カ国に増えた)。それらの国が核兵器を持つことは合法的である。しかしいかなる状況においても核兵器を持ってはならないような「ならず者国家」があり、もし持つことになれば、国際法に対して重大な違反を冒すことになる。必要とあれば、武力を使用してそれらの国は抑えられるであろう。

これこそ核時代の「神話」である。核兵器は使用されることもなく、しかも明確な価値があり、有益な目的を果たしている。残念ながら私達の多くは、このように見事に周到に画策され、巧妙に教え込まれた作戦の犠牲者となってしまった。

ダブルスタンダード

核兵器の問題は、おそらく国際法や国際関係においてもっとも重大な問題であるが、核保有国は自分たちの都合のいいダブルスタンダードに基づいてこの問題を扱っている。

我々は今、小学生にでもわかるような不条理な状況にある。つまり、核兵器を所有することにより、国際法に違反する国は厳しく処罰され、弁明を求められる。そしてその処罰する側の国はまさに最大の核兵器保有国であり、他国に課そうとしている規則を自らが破っているのである。10歳の子どもが学校の作文の中で、「誰もが核兵器は望まないといっている。しかし、前よりも核兵器の数は増えている。誰かがどこかでうそをついているに違いない。」と書いているのはうなずける。

これは、現代の世界情勢の矛盾である。小さな公開討論会でこのような矛盾した話は馬鹿にされるが、権力、威信、利害がかかわるとそうではなくなる。我々は人類にとって今まででもっとも深刻な危険に直面しているのである。持てるものと持たざるものに、それぞれ違う法律が適応されるならば、一国家内でもうまく機能しないように、国際的にも有効に機能しない。このような法制度はすぐに支持されなくなるだろう。もし逆に、すべての国家が核兵器に対し一貫した姿勢で臨むなら、核兵器をコントロールし廃絶する可能性は高くなる。そうでなければ、核兵器のコントロールと廃絶は、実質的に不可能である。そういうわけで、この目的にとっての最善の手段である核不拡散条約に最大級の配慮や注意を払う必要がある。

これに関して、国際法における世界の最高裁判所である常設国際司法裁判所の裁判官の全員一致の意見が参考にされなければならない。これは国連総会が核兵器の合法性について国際司法裁判所の意見を求めたときに述べられたものである。裁判官全員(彼らは、すべての大陸、伝統、法律制度、宗教を代表している)が、「厳格かつ有効的な国際的管理の下でのあらゆる面での核軍縮に導く交渉を誠実に追及し、完了させる義務が存在する。」とした。

これはすべての国に対する避けられない義務である。もし核保有国が全面撤廃を目的として誠意を持って核不拡散条約を実行しなければ、それは条約法の下で、また慣習的国際法、法の一般的な原則、司法判断で立証された法の下で、自らの基本的な義務違反となる。つまりすべての国際法の下で、自らの義務を果たしていないのだ。もし核保有国が、国際司法裁判所が満場一致で制定した義務を果たさないなら、非保有国が国際法に従い核兵器を持たずにいることがどうして期待できようか。核保有国は信頼を得ることも、権威をもって他の国に意見することもできないだろう。

核の危険が広がる理由

核兵器を使用する危険性が着実に高まっているのはなぜだろう。
10以上の理由が挙げられる。

1) 核兵器を手に入れる機会を持つ国の数が増えている。核兵器を持っていてそれを明言していない国がある。また、核兵器保有を望んでいるが、それを明言していない国もある。
世界中の兵器の保有状況に細心の注意を払っている機関でさえ以下の正確な数はつかめない。

a)実際に核兵器を保有している国の数
b)核兵器を保有する可能性の高い国の数
c)核兵器の研究を開始した国の数
d)核兵器を手に入れるために密売人などと交渉している国の数

しかしながら、明らかに、上記のすべては進行中であり、この世界を破滅させるような問題について支配的な考え方であるダブルスタンダードが、この進行を助長している。

核兵器保有の疑惑により制裁を受けたが、実は保有していなかったと判明した国がある。このことですべての国が核兵器に対する共通の方針に従って行動しない限り、核兵器入手の企てを取り締まるのは不可能だとわかる。

広島と長崎の時には、核保有国は一カ国だったので、核の報復を気にせずに核兵器を使用することができた。
しかし核保有国の数はすぐに、2、3、4、5カ国と増加し、最近インドとパキスタンが核クラブの仲間入りをした。南アフリカ、イスラエルといった国々が核兵器を開発したと考えられている。しかしその後、南アフリカは模範的な態度で核保有を放棄し兵器工場を閉鎖した。他にも核兵器を保有している、またその途上であると考えられる国もある。

核兵器の保有を望んでいる国が数カ国あるが、もし核保有国が軍縮の義務を果たす意思を示すならそれらの国の野望が抑えられるのは明らかだ。核保有国がその義務を怠り続けるなら、非保有国は核兵器を持つことを思いとどまる義務はないと感じるだろう。

2) テロリストグループの勢力と活動範囲の拡大には目を見張るものがある。

彼らは武器製造者、麻薬密輸業者、人道的価値などにはほとんど気に留めることもない者たちと結託していることがよくある。時には、利害関係のある組織や、国外在住者のグループや、紛争で利権を得ようとする者たちから資金提供を受けることもある。彼らの保有資産は数億ドルにものぼることがある。核兵器をどうしても手に入れたいと思っており、必要な核物質や知識、さらには遺棄された核兵器の中から核爆弾そのものを購入する資金力がある。

核爆弾そのものでないとしても核物質の入手は、テロリストたちにとって容易になる一方で、現実に手に入れてしまう日も近づいている。実際、近い将来テロリストのグループが核兵器を手に入れて威嚇しているというニュースで目を覚ます朝が来る可能性がないとは言えない。いったん手に入れてしまえば、彼らにはそれを使用するのに何の良心の呵責もないであろう。

現在の世界情勢は新たなテロリストを生み出している。目の前で愛する者を殺されたり、結婚式を爆撃されたり、子どもを爆弾で吹き飛ばされたり、友人や隣人を一度に何人も殺されたりした人たちである。そのような人たちが新たな暴力に駈りたてられ、暴力の連鎖がエスカレートすることになる。

3) 核兵器製造に必要な知識は保有国の安全保障組織内で僅かの専門家だけが持っていて外には出さない、という状態は終っている。
情報技術(IT)の拡散に伴い、核兵器製造のノウハウは、必要な情報に侵入できる頭の良い大学生やハッカーにまで広まってしまったのである。私は以前この点についてある講演会で指摘し、講演の後で、出席していた一人の物理学教授に私が述べたことは大げさだろうかと聞いた。彼の答えは、核爆弾製造の基本知識を欲しながら入手できないような物理学の学生は良い成績に値しない、というものであった。このような危険な知識を非常に多くの人が
入手できるのは憂慮すべきことである。

4) 今では解散してしまっている核プロジェクトにかつて従事していた科学者、特に旧ソ連の科学者、が大勢いる。
そのような科学者の中には、相応な代価を支払う用意があるいかなる組織や個人にでも自分の技術や専門知識に売り渡そうという者たちがいる。彼らに接触するのは簡単である。特に、この知識を熱望している国家や組織には自由になる豊富な資金があるからである。

世界にはこれらの科学者たちの名簿は存在しない。それは彼らが入っていた組織は完全な機密状態で機能していたためである。彼らの組織が解体した後となっては、彼らがどういう名前か、どこに居るか、何をしているか、誰にも分からない。

5) 核兵器製造に必要な材料、特に原子炉から出る副産物は、世界中での原子炉の増加に伴ってますます大量に入手できるようになっている。
現在世界中で440基の原子炉が総量で68,357トンのウランを使用し、これらの原子炉から出る使用済み核燃料は増えるばかりである。この使用済み核燃料に関しての記録はなく、望めば極めて簡単に入手できる。国際原子力機関(IAEA)にはこの核物質の正確な記録を持っておらず、密売は金になる商売なのである。世界各地にできている新しい原子炉の中には基準に満たない材質で建造されているものがあり、適正な管理監督を受けておらず、廃棄物質のち密で透明性のある保管量記録もとられていない。そのような原子炉を持つ国の中には、ウクライナ(15)、スロバキア(6)、ロシア(31)、インド(14)、パキスタン(2)、中国(15)、韓国(20)がある。440ヶ所から出る大量の廃棄物の明瞭な保管記録をとらせ、また、監視するには全世界の協力が不可欠なのは明らかである。

これらの核物質の多くは別の場所に移送されるが、その際に強奪される可能性には非常に現実味がある。それらの物質は鉄道、トラック、船舶、航空機などで輸送されるが、自国内の輸送においてでさえ通過経路にある関係官庁には何の連絡もない。そうして一般市民は、日常的に使う道路がこのような危険な輸送に使われていることを何も知らされていないままなのである。

6) いくつかの国では、LOWC(警報即発射システム)と呼ばれるものに従って防衛システムを警戒態勢にしている。
即ち、そうした国々には前触れなく領空に入ってくる物体を感知し、危険に直ちに反応する装置があるということである。もし怪しい物体が領空に侵入し、核装置だと判断されると、LOWCが数秒とは言わないが、数分以内に反応することになっている。これは、核兵器を発射させるのに、国の責任を負う大統領や首相の決定が必要であるという神話を覆すものである。決定するのは機械であり、その決定は数分以内になされる。そして機械は間違いを犯すものである。単純な機械上のミスであるかもしれない。完璧な機械などないことをみなよく知っている。判断ミスもありうる。実際は全く無害であっても、予告なく入ってくる物体を間違って核兵器だと認識するかもしれない。実際にそのような例があった。ノルウェーの無害な観測衛星がロシア領空に入ったときに、ロシアのLOWCが危うく反応しかけた。発射前に8分間の猶予があるが、そのうち6分間衛星を敵機だとみなしていた。発射までの時間がほとんどなくなりかけたとき、エラーが見つかったのは幸運な偶然であった。

もし誤った反応により核兵器が発射されれば、それは戦争の開始を意味する。このようにして発射された核兵器は、核攻撃だとみなされ、核兵器を受けた側のミサイルシステムが自動的に核兵器を発射し、報復する。そして核の応酬となる。

空中には何らかの理由で多くの物体が飛んでおり、そうした物体が核保有国の領空に誤って侵入する可能性は常に存在する。そして意図せずとも戦争が起こる危険性は高まる一方である。

7) 核の事故もいつでも起こりうる。過去に数多くの事故があった。
何万という核兵器が世界中に存在するという事実を考えれば、その危険は重大である。過去に起こった多くの事故は一般の人々にはほとんど知られていない。ここにいくつか事例を挙げる。

・1950年 8月 5日
核分裂性核種のない核兵器を搭載したB29が米国で墜落炎上した。核兵器が墜落15分後に爆発し、18名が死亡、60名が負傷した。
・1961年 1月24日
B52がノースキャロライナ上空で火災を起こし、誤って2発の水爆を落とした。水爆は爆発しなかった。
・1963年 4月10日
米原子力潜水艦スレッシャー号がボストン港で沈没、129名が死亡。これは原子力潜水艦事故としては世界で最初の大惨事である。
・1965年 8月19日
米潜水艦発射弾道ミサイルトライデントが米国で火災、53名が死亡した。
・1966年 1月17日
水爆を搭載したB52がスペイン上空を飛行中に墜落。放射能汚染を引き起こした。
・1969年
中国の原子爆弾工場で事故
・1970年
ウエストゴーリキーの原子力潜水艦工場で爆発。数名が死亡、放射能 汚染を引き起こした。
・1976年 10月25日
バルト海のソビエト海軍基地で地下核爆発。40名以上が死亡した。
・1978年 1月29日
ソビエトの原子力衛星がカナダ北東部の湖に墜落。放射能汚染を引き起こした。
・1979年 7月 6日
ムルロア環礁でのフランスの核実験で爆発事故が発生した。
・1988年 9月28日
28年間で30件の重大事故がサバンナ川核兵器工場で起こっていたことが判明した。
・1989年 4月 9日
ソビエトの原子力潜水艦がノルウェー沖で炎上、沈没。42名が死亡した。

これらは核の事故の長いリストの一部に過ぎない。核関連事業が存在する限り、こうした事故は起こり続けるであろう。どんな事故でも連鎖的に危険な結果を引き起こす可能性があり、それは誰にも予測できない。

8) 世界は過去60年、何度も核戦争の危機に直面した。
核戦争寸前まで行ったことが何度となくありながら、世界が核戦争から救われたのは幸運なアクシデントが続いたために過ぎない。一旦爆弾が発射されると後戻りはできず、他の核保有国を巻き込んでの争いにエスカレートするだけである。そして全面的核戦争となる。

以下にその例を挙げる。

・1948年 ベルリンの壁の建設
(訳者注 : 1961年と思われる)
・1950年
朝鮮戦争の勃発
・1956年
スエズ危機
・1958年
台湾海峡危機
・1962年
キューバミサイル危機
・1968年
北朝鮮による米情報収集艦プエブロ号のだ捕

キューバミサイル危機が、ソビエト連邦とアメリカ二大国の正面切った対立であったということを誰もが知っている。現在それを振り返ってみると、予測された結末は衝突でしかなく、戦争回避に至る可能性は非常に低いものであった、という結論は避けられないだろう。戦争回避に至ったことは、世界にとって非常な幸運であった。

9) 核の危険が増加しているもう一つの理由は、世界中の小規模な戦争の数が増加しているということにある。
この小冊子を作っている最中にも、およそ40もの紛争が世界中で進行中である。そうした紛争の中には、他国を巻き込む可能性があるものがある。そのような敵対状況においては、常に核保有国を巻き込む可能性があり、いつそのようなことが起こるか誰にもわからない。ほとんどすべての一見小さな対立には、当事国の後ろで動いている大国の利害関係がある。そして、大国が介入すると、核兵器使用への危機はさらに高まるのである。

10) 増大する国際法の無視
近年、国際法が無視される傾向がある。国際法を無視できる立場にあると思っている人々の利己的都合次第で国際法が無視される。安全保障理事会の常任理事国二か国によるイラク侵攻は、このような手段に訴えることを禁止する国際法の下で培われてきたいくつかのルールが無視された一つの例である。安全保障理事会の承認を得ない武力行使・先制攻撃・一方的な行為の禁止、どの国も一方的に他国の統治者の座を奪う権利を持たないという原則、歴史的建造物は保護されるべきであるという原則、これらは全て国際法で十分に確立されており、国連憲章自体にうたわれているものもある。何百万人もの尊い犠牲の上に作りあげられたものであり、尊重されねばならない。

とりわけ大国によって国際法が無視される場合は、違法な武力行使や国際法を軽視しようとする人々に、本来ならば作用する歯止めが利かなくなってしまう。

11) 核の危険性が増大するもう一つの理由は、富める国と貧しい国との大きなギャップであり、このギャップは拡大するばかりだ。
基本的な生活必需品ですら入手できず絶望の淵にある国々は数多い。そのような国、あるいはその中の身勝手なグループが、特権の中枢部を自分たちの困窮の原因と見なし、攻撃を開始しようとする時が来るかもしれない。何億もの人々が貧困ラインを下回る生活を送り、何百万もの失われなくてもよい命が失われ続けている。これは、極度の人的・物的不足、富める国々の無関心、そして多国籍企業が貧しい国で操業し、実質的に彼らから富を搾り取っているためである。

この緊急課題の一つである地球規模の問題に対しては現在十分な注意は向けられておらず、テロリストや勝手に制裁を加えようと準備する人々に、十分な理由付けを与えている。

12) 核兵器の改良に向けた研究が世界中で進められていることも忘れてはならない。
核兵器は、絶えずより正確に、扱いやすく、配備しやすくなっている。ますます持ち運びやすくなり、旅行カバンに入れたり身につけたりできるほど小型化する日もそう遠くはない。この段階に達すれば、

一人の自爆者が
そして自爆者が不足することはないが
世界を相手に金をまきあげることも可能である。

13) また覚えておくべきは、今後どのような紛争であっても核兵器が使用されるならば、その応酬がありえなかったヒロシマ、ナガサキではすまないということだ。
どこであれ次に核兵器が用いられれば、核兵器による反撃を招き、さらなる報復、核の応酬、核の冬、そして現存する有機生物の絶滅すら予測される恐ろしいシナリオへとつながるのだ。

14) 核兵器の備蓄は3万発を超える。
核の在庫リストを作り、備蓄し、監視することは、非常に多くの人々が核兵器を欲しがる世の中において、ますます難しくなっている。旧ソビエト連邦で武器庫が隔離された場所にあったように、核保有国の保管基地には首都から遠く離れているものがある。同様に核物質は在庫を調べられることなく、製造され続けている。核の密輸は身に迫る危険となった。核の密輸を阻止し、予防できる唯一の方法は、全ての国家(核保有国であれ非核保有国であれ)の同意のもと、核物質や核兵器製造のノウハウの監視と取締を行うことである。これは核保有国と非核保有国が、ともに安全対策に取り組まなければ実現しえない。そして全ての国の連帯を可能にするには、核保有国・非核保有国双方による相手の立場にたった自由で率直な意見交換や、相互コミットメントが欠かせない。このことは核兵器全廃にむけた取り組みに誠意がみられない現在の政策に核保有国が固執する限り実現しえない。

15) 捨て身の任務を遂行する自爆テロリストの数が増加しているのは、現代の現象である。
昨今の国際的な出来事や対外政策の結果、彼らの存在は着実に大きくなっている。

盲信的な自爆者は捨て身で突っ走り、単独行動をとるため人目につきにくい。彼らは自分たちの価値観や愛する人々、そして育んできた願いが、暴力行為によって破壊されるという状況の中で生み出される。彼らは、自分たちへの不公平感を痛切に感じて献身の精神に燃え憎しみに突き動かされている人々であり、彼ら自身へ、そして数千の罪のない犠牲者にもたらされる結果も意に介さない。彼らには結果を見据え考えを軟化させるだけの情報がない。今日の世界情勢は、かつてないほどに彼らの存在感を増大させている。

核不拡散条約(NPT):5年ごとの見なおし

今まで述べてきたことすべては、2005年5月にニューヨークの国連本部で開かれる核不拡散条約の5年ごとの再検討会議に向けて、重要かつ緊急を要する問題となってきた。この再検討会議は、全世界にとって上記に述べてきた危険性を再び考えなおす最良の機会となる。またそうすることで今までのどの再検討会議にも増して、今回の再検討会議を重要なものと位置付けることとなるのである。この機会が用いられなければ、核のもたらす危険性の増大を止めるための建設的な決定の最後のチャンスを逃してしまうことになるかもしれない。

核不拡散条約は、ある意味で核保有国と非保有国との駆け引きであった。保有国は非保有国に核兵器を持たせない、しかしそのかわりに最終的には核兵器を廃絶するという見地に立って、自らの軍備を段階的に削減する有効な手段を講ずると説得してきた。保有国はこの条約の下での義務に非保有国を縛ってきたが、自分達が果たすべき義務の部分に関しては怠ってきた。このことは非保有国には受け入れがたく、非保有国の核兵器保有願望を抑えられなくしている。そしてそれが新たなる危険性を増幅させているのである。

核保有国は、自分達が現在取っている政策によって、核使用の脅威にさらされる日を早めていることに気づくべきである。核保有国の国民が、このような近視眼的な視野に立った政策によって、自分達の町や村の何十万人もの命を奪うことになるかもしれないと気づけば、NPTで定められた自国の果たすべき義務を遵守するように、自国の政府に有効な圧力をかけることができるだろう。

この小冊子の目的の一つは、この危険性がどれほど深刻なものであるかを十分わかっていない国々の、平和を愛する、善良な大多数の人々にこの現実を分かっていただこうとするものである。

このような理由から、核の脅威は時間的にも地理的にも我々から遠く離れたところの問題ではなく、すぐ身近な、そして日々増大している脅威なのである。独り善がりと無関心は核の脅威を一層加速させ、ますます脅威を我々の身近に迫らせる大きな要因となる。

この問題は保有国、非保有国を問わず、すべての国が真摯に取り組んでいかなければ解決されることはない。全人類のための法である国際法の基本原則は、取られるべき措置に信頼性があるならば遵守される必要がある。

もし核保有国と非保有国が力を結集し、この残酷な兵器を地上から追放する決意を共にするなら、拡散をコントロールし、保有数を管理し、ならず者を追い詰め、この地球をより安全な場所にすることができるだろう。逆にもし保有国が二元的な法体制(一方は自分達「持てる者」、もう一方はそれ以外の「持たざる者」)を主張するなら、拡散は続き、ますますこの兵器を手に入れようとする輩は増え、無責任な者どもが核の引き金を引くことになるであろう。

いったん事が起こると、それは次々と拡大していき、核の応酬はすべての市民やすべての秩序ある社会を消滅させてしまう可能性がある。またすべての生命体自体を壊滅さてしまうかもしれない。

子ども達は素直な目で、問題の複雑な部分ではなく、この兵器の残酷さを見ている。ある6歳の少年が言ったように、「アダムが最初の人間だけど、僕は最後の人間にはなりたくない。」子どもの目にも明らかなように、この兵器の危険性はもっと広く認識されるべきである。
これまでのところ、核不拡散条約は人類に対するこのような脅威の根絶という最終目標に向けた我々の重要なステップである。我々は皆、真摯にしかも強い決意を持って、この目標に向かわねばならない。ある壁に以下のように書かれている。

必要な材料の蓄積が増え、必要な知識取得の可能性が増し、必要な資金を手に入れ、使用しかねない者の数が増え、その者達を駆り立てる怒りや不満が増大し、偶発的な使用の危険性が増し、世界中で紛争が増えていく、そして核の危機は増幅するのである。

我々の幸運がどれくらい続くのかは誰にもわからない。もしすべての人類がこの兵器の廃絶のために共に行動を起こさなければ、この兵器は単独で全人類を壊滅してしまうこともありうるのだ。

ウィーラマントリー氏 横顔

96年、国際司法裁判所が「核兵器による威嚇や使用は、極限的な自衛状況以外は、一般的に国際法違反である」などの勧告的意見を国連に対して出した

ウィーラマントリー氏自身は、核兵器は『一般的に』ではなく『常に』違法との見解をもって主張をしている。

1926年 スリランカに生まれる
1967年~ スリランカ最高裁判所判事
1972年~ オーストラリアにて大学教授
1991年~2000年 国際司法裁判所判事
2003年~ 国際反核法律家協会会長
著書・20冊を越えている。

ウィーラマントリー

左から 村上啓子・笹森 しげ子・ウィーラマントリー氏

ウィーラマントリー氏との出会い

NPT再検討会議の会期中の05年5月4日の国連ビルは、全館がどよめいていた。その昼下がり、私たち「世界平和ミッション」の面々はウイーラマントリー氏に会うために地下のレストランで待っていた。やがて、小柄な彼が大勢の人を掻き分けながら近付いて来られた。スリランカ人特有の彫りの深い端正な顔立ちは、広島の反核集会でお見かけして以来なので、懐かしさがこみ上げてくる。
中国新聞の岡田記者が「1996年、原爆使用は不法だと判決を下して頂いたことに感謝します」と、挨拶して、矢継ぎ早に過去・現在・未来の核事情について質問をした。
話しの切れ目に彼は掌サイズの冊子を下さった。そして「古来から、人を殺すのは禁止されています。それは絶対的なルールです。未来を駄目にする核兵器は核保有国にもダメージを及ぼします。この冊子に、私の主張することが述べてありますから読んでください。ああ、そうだ。誰か日本語に訳して広めて貰えないだろうか。どうぞ、日本の人々に伝えてください」と言われた。
とっさに「私が属しているヒロシマ・スピークス・アウトがやります」と、私は手を挙げた。次の瞬間、彼の満足そうな笑顔が目の前にあった。
私たちに許された時間は瞬く間に過ぎ去ろうとしていた。他のアポイントがあるからと、立ち上がろうとしているウイーラマントリー氏に「翻訳したら、ヒロシマ・スピークス・アウトのホームページに日本語は勿論ですが、英語も掲載していいですか」と訊ねた。「ああ、いいよ」と、彼は気さくに返事をされた。在ロスの被爆者・笹森しげ子さんが「ご一緒に写真を」とお願いすると、肩を寄せてカメラに向かって下さった。そして「早く、早く」と急かす秘書の指差す方に向かって小走りに去って行かれた。

村上 啓子