寄稿

愛の文明 -広島からの提言ー 広島大学 名誉教授 森瀧市郎

1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾で私は右眼を失った。しかし幸いにいのちは無事で生き残った。残った左眼を確保するために私は郷里の眼科病院で半年間の入院生活をした。この半年間ほど思索にふけったことはない。

あの恐ろしい原爆惨禍の状況を思い浮かべながら、私はこんな恐るべき兵器を作り出すようになった近代の文明は同じ方向をとりつづけてもよいのか、同じ方向をとりつづけたら人類は自滅するより外ないのではないか。何かちがった新たな文明の方向はないのか。このような、素朴な、しかし真しな文明判断をいだいたのであった。こんな思索の結論として私は近代文明を「力の文明」として批判せざるを得なかった。

では力の文明に代わる新たな文明の方向とは何か。結局私はそれを「愛の文明」の方向と見定めたのであった。というのは、原爆惨禍の悲境の中で私は人類の永遠の教師ともいうべき釈迦・キリスト・孔子の教えの根本にたずねかえらないではおれなかった。その時、これらの教祖は一人として「力の原理」を肯定するものはなかった。一様に力の原理を否定して愛の原理を強調したのであった。三人の教祖は人類が末永く生きる所以の道を示しているに相違ない。それが一致して「愛」を教えているのである。その「愛」に立脚した文明の方向、それを「愛の文明」と言い表すならば、私たちは「力の文明」から脱却して「愛の文明」を求めるべきなのではないか。私が原爆被爆後半年間の入院生活の中で到達した思索の結論は「力の文明から愛の文明へ」ということであった。

しかし、原爆後42年間、私が「力の文明」として批判した所のものは、その方向を変えようとはしなかった。「力の文明」の最先端で出現した核兵器は原爆から水爆へ、原水爆から核ミサイルへと進み、米ソの核ミサイル競争は宇宙空間までひろがった。

その上、核は軍事利用に止まらず、商業利用に進み、原子力発電は全地球上に建設され、世界のエネルギー源の大半に達しようとしている。このような核の軍事利用商業利用の両面で私たちはいつのまにか「核文明」のどまんなかに立たされているのである。原爆直後の入院生活の中で私が「力の文明」と呼んだものは今やはっきりと「核文明」という姿をとってきているのである。

私たちの反核平和運動は核の軍事利用はもとより核の商業利用をも是認肯定せず、絶対に否定し拒否してゆく立場、即ち「核絶対否定」の立場に立って推し進められてきた。私たちは今や、核絶対否定の立場に立って核文明と対決しようとしているのである。核文明の時代をたちきり、非核の未来、非核文明の時代を拓こうとしているのである。「力の文明から愛の文明へ」の叫びは今や「核文明から非核文明への転換」の叫びなのである。

軍事利用でも平和利用でも核の開発利用には常に放射能被害の可能性がからんでいる。ウラン採掘の段階から放射性廃棄物の処理の段階に至るいわゆる核燃料サイクルのすべての段階で放射線被害の可能性がある。その際に、被害者は多くの場合、弱いものの側に、差別され抑圧されているものの側に生ずるのである。核の開発利用は構造的に差別・抑圧の上に成り立っているのである。ウラン採掘におけるアメリカ先住民やオーストラリア先住民のごとき、原子力発電における下請労働者の場合のごとき、核実験における太平洋諸島の島民の被害のごとき、みなそうである。国家や企業の強き側と使用される弱き側、その弱き側の差別抑止、人権無視の上に核開発は行われる。力の文明の構造には、その根底に、権力によって支配抑圧するものと、権力によって差別・抑圧・無視されるものとの関係が横たわる。太平洋諸島の反核運動で「ニュークリヤー‐フリー・アンド・オプレッション‐フリー」(Nuclear-Free and Oppression-Free)と呼ばれる所以である。
このようにして生じた世界の核被害者が今ここに集まって、核文明の時代をたち切り、非核未来、非核文明を拓こうとしているのである。

私たちが求めて止まぬ非核未来、非核文明―即ち愛の文明―の実現とは如何ようなものであろうか。

核文明は科学・技術に主導される産業文明の頂点である。そのような産業文明は巨大なエネルギーに立脚した巨大生産であり、一方、巨大消費である。私たちは今そんな巨大生産・巨大消費の中で、子孫のものまで使い果たそうとしている。地球上で無限の資源というものはない。資源はたいせつにして節約して子孫に譲り残さなかったら、子孫の生きる余地はない。私たちは先ず巨大なものをめざすことを止めなければならない。そして、小さきものに美を求めなければならない。シューマッハー博士の「巨大なものは悪であり、小さきものこそ美しい」(Big is evil, small is beautiful.)という言葉が示すような「価値転換」が力の文明から愛の文明への転換の第一歩である。

非核未来は巨大な核エネルギーにたよらない未来である。太陽・風・水・波・地熱等の代替エネルギーで事足りるようにしようというのである。自然の循環の範囲内でつつましく生きてゆこうとするのである。

力の文明は「自然征服」の思想に立つ。自然征服の思想は近代物質文明進展の動力であった。しかし言葉だけにしても「征服」というのはよい言葉ではない。自然を征服するのではなくて、自然に随順してこそ(according to nature)深い人間らしい生活と文明がある。アメリカ先住民の「母なる大地」の思想や「自然との共生」という生活態度こそが愛の文明の基盤なのである。

力の文明の根底には征服・支配・抑圧と隷従・差別・無権利の対立関係がある。愛の文明は地球上の人間の平等共生の上に築かれる。殺し合うのでなくて生かし合い、奪い合うのでなくて譲り合うて「万人同胞」(Universal Brotherhood)たる所に実現される文明である。力(暴力)を否定して「非暴力」(Non-Violence)を説き実践したマハトマ・ガンディーの精神に立って実現される文明である。

力の文明は外へ外へと開発の情熱が向かい、宇宙開発にまで立ち向かおうとする。愛の文明は内へ内へと向かっての開発に情熱をそそぐ。限りなく豊かな内面世界を開発しようとする。そこには限りない精神文明の創造が待望されるのである。