「原爆は悪の固まり」笠岡貞江
被爆当時の生活
私は当時、爆心地から3.8キロ地点の広島市江波町に、両親と93歳の祖母と4人で暮らしていました。姉3人は嫁いでおり、小学5年生の弟は広島県双三郡吉舎町のお寺に学童疎開しており、兄は神戸の商船学校に在学中でした。
私は13歳で女学校1年生でした。しかし、学校の授業も夏休みもなく、作業ばかりの毎日でした。原爆投下の前日まで、爆心地近くの大手町で建物疎開の作業に出ていました。8月6日は作業を休み、家にいました。よく晴れた日でした。朝早く、両親は広島市役所近くの知人の家の建物疎開の手伝いに出かけ、家にいませんでした。警戒警報解除のサイレンを聞いて、もう大丈夫、敵機が来る心配はないと思い、私は朝食の後片付けや食器洗いをした後、洗濯物を庭の物干しに干し終えて、家の中に入りました。
8時15分
私は、2.5メートル程のガラス窓のある東向きの部屋に向かっていました。突然、目の前のガラス窓一面が、真っ赤、いや日の出の太陽にオレンジ色を混ぜたようなきれいな色になりました。その瞬間ドーンと大きな音がしたと同時にガラスが割れ、粉々になった破片が私に向かって飛んできました。爆風の凄い圧力で後ろに押され、私は一瞬何も分からなくなりました。われに返って頭に手をやると、ヌルリとしました。ガラスで傷をしたためでしたが、痛いとは感じませんでした。早く逃げなくてはと、祖母と一緒に町内会の防空壕に入りました。近所の人もいましたが、何が起きたのか分かりません。不安のまま外に出たとき、建物の瓦が落ち、壁土が落ちて散乱しているのに気付きました。9時を過ぎた頃に街中に出ていた近所のおじさんが戻られましたが、火傷で皮膚が変色し、顔と腕がピンク色になっており、「広島は大変じゃ、ピカーと光ってみんなやられた」と大声で言われました。
両親を失う
市の中心部に作業に出ていた大人や中学生が臨時救護所になった小学校に収容されていることを聞いて、ますます心配は募りました。親類のおじさんに探しに行ってもらいましたが、火炎のため引き返して来られました。
神戸にいた兄が帰省の途中、広島駅近くで原爆に遭い、夕方、家に着き、すぐに両親を探しに出ました。夜に、父が大河町の親戚の家に逃れているとの知らせを受け、兄が迎えに行き、大八車に乗せて連れ帰りました。戸板に寝ている姿は生きている人とは思えませんでした。顔は大きく腫れ上がり、着衣は焼かれて、何も着ておらず、身体が真っ黒で、光っていました。声を聞いて父だとわかりました。薬はなく、胡瓜やジャガイモなどをすりおろして、湿布代わりにしました。すぐ乾きましたが、取り替えることもできません。さわったらズルッと黒いところが剥けて下から赤みが出ました。表面だけでなく、内部まで火傷していました。意識はあり、「雑魚場町にいて、キチと一緒に逃れようとしたが、離れてしまった。探してくれ」と妻を案じていました。水を欲しがりましたが、火傷の人に水を飲ますと死ぬと聞いていたため、水道が止まっているなどとごまかしました。酒の好きな人で、蔵の中にビールが大事にしまってあり、「酒でもいいから、飲みたい」と言ったのに飲ませなかったのが今でも、心残りになっています。
父には、団扇で扇いであげることしかできませんでした。暑いのと傷口にたかる蝿を追い払うためです。傷は化膿し、蛆虫が傷口から出たり入ったりしていました。水の代わりになるものがないかと、畑に取りに行きました。嬉しいことに、トマトが目に入り、急いで籠に入れ、ふと顔を上げたとき、異様な光景が目に入りました。
身体全体が白くなった人たちが両手を胸の辺りまで上げ、襤褸をぶら下げて、無言で行列して、陸軍病院の方へトボトボと歩いていました。まるで幽霊のようでした。襤褸は火傷で皮がぶら下がったもので、身体が白いのは灰を被って、白く見えたことがあとでわかりました。
父は行方不明の妻と幼い子供たちのことを心配しながら、8月8日の夜に息を引き取りました。死ぬ人が多いので、火葬場は使えず、海岸の砂浜に穴を掘って、板や木切れを集めて火葬しました。近くで多くの火葬の煙が立ち、異臭が漂っていました。
兄は母を探しに行きましたが、なかなか見つけることができませんでした。兵隊さんが被爆者を船に乗せ、坂村、似島、宮島などの救護所に運んでいることが分かりました。兄は似島に行って、名簿に母の名前を見つけましたが、既に8日に死亡し、遺体は処理されていました。遺品は小袋に少しのお骨と髪の毛だけでした。父とはぐれて、子どもと年寄りのことを気遣い、家に帰りたかったであろうと心情を察すると今も胸が傷みます。
苦難のその後
翌年、私は身体のあちこちに吹き出物ができ、右腕に三つも大きな穴が開き、半年以上治らずに困りました。貧血も続きました。両親を無くし、その後の生活は悲惨でした。祖母や兄姉に支えられて生きてきました。就職試験には落ち、お見合いをしても結婚に至らず、被爆が障害になったことは否めません。縁あって被爆者と結婚しましたが、夫は35歳の時、癌で死亡しました。私は原爆を悪の固まりと言っています。
戦争を知らない世代に伝えたい
原爆のことを思い出すと涙が出てきて、語ると胸に込み上げるものがあります。しかし、犠牲になった人たちの代わりに、生きている私がお役に立てればと思い、証言ビデオを平成12年2月に撮っていただきました。これを機会に小学生らに被爆体験を話すようになり、本年、財団法人広島平和文化センターの証言者にならせていただきました。世界中から核兵器が無くなり、平和が実現されるよう訴えて行きたいと思います。
これは昭和15年3月、長兄(後列右から3番目)の出征祝いのときに家族で撮った写真です。前列真ん中が祖母。その横が本人(7歳)後ろは三人の姉たち。前列右端が母(似の島で亡くなった。)後列右から二番目が父。(被爆後看病したが8月8日に亡くなる。)右端が兄。小さい男の子は弟です。出征した長兄は戦死しました。