1.広島の川が火と煙の海に

生いたち

私は広島市吉島町(よしじまちょう)で、父、岡崎和八、母サヨとの間に、2男3女のうち、次女として生まれました。学校は中島(なかじま)小学校へ行き、高等科は国泰寺(こくたいじ)学校を卒業しました。

父は体が弱く定職には就いていませんでした。54歳で心臓喘息(ぜんそく)が原因で亡くなり、母も心臓が悪く52歳の時、心臓麻痺(まひ)で亡くなりました。
長女の姉は、昭和10年32歳で熱暑病で亡くなり、その娘のみ健在です。

長男の弟は昭和5年19歳で、これも両親と同様、心不全で亡くなり、次男の弟は昭和10年腸チフスにかかり、19歳で死亡。妹は胃潰瘍(いかいよう)で昭和6年17歳で亡くなりました。
私は21歳ころから習い覚えた男物洋服の縫い替えと和裁(わさい)の内職などをしていました。

昭和17年10月、25歳の時、縁あって31歳だった武内正夫と結婚し、1度妊娠しましたが4ヶ月で早産し、その後は妊娠はしていません。結婚後2年を過ごすも体が弱く、夫について行けない、迷惑をかけることが分かり、自(みずか)ら身を引きました。世帯(せたい)は天神町(てんじんまち)で持っていましたが、離婚後は吉島町の実家に帰りました

地上まで降りた雲

昭和20年8月6日の朝は、父の17回忌で墓参りに、将来養子にと思っていた10歳の従兄弟の息子を連れ、加古町(かこまち)・住吉橋西側土手、10mほど南に下がった左側の親(しんせき)の玄関口の門に入ったとたん、目の前が真っ暗になり倒れた。どのくらい倒れていたのか分からぬが、気が付けば家の壁と柱の下敷きになっていた。夢中で壁竹を手折(たお)って這(は)い出た時は、血だるまとなっていました。背部、頚部(けいぶ)、両下肢大腿部(りょうかしだいたいぶ)、両上肢 (りょうじょうし)から出血。あたりを見れば雲が地上まで降りて、私は雲の中に圧迫されているようで、身体をどうする事も出来ず、ただ1人お念仏を唱えて時間を待っていましたら、雲はいつとなく逃げて薄くなりました。その時、泥雨(どろあめ)が強くザーッと降りました。子どもはどうなったかと気になり、あたりを探しましたが、遺体(いたい)も見つからず、被爆死(ひばくし)したものと思います。

あたりは火と煙の海で、やっと住吉橋の橋の下に下りて、咽喉(のど)が乾き川の水でもと思って手をつけると、熱くてどうにもなりませんでした。また土手に這い上がると黒焦げ人間の姿ばかりで、「エー、エー」とうめき声が聞こえてくる。私はどうする事もできず、あたりには人影も無く、素足(すあし)で火の中を走りつづけました。ふと観音(かんおん)橋に気付き橋までたどり着けば、大師像(たいしぞう)が見つかりホッとしました。自分の体を見れば着ていた物はなく、まるで裸同然であちこちから出血していました。大師像の下を流れている下水の所に着いたと思ったら、B29焼夷弾(しょういだん)を3発落として南に向かって逃げました。1発が下水の中に落ち、爆発して下水の両側に生えていた「ヨモギ」も焼かれました。ヨモギは止血に効果があると聞いていましたので、ヨモギをさがしあるき、その汁をお茶がわりに飲んだり、、しぼりかすは傷口に貼り、出血を止めました。ヨモギは約1ヶ月あまり探しあるき飲み続けました。

8月6日は観音橋の土手で寝ました。翌日から観音町(かんおんまち)の市商(ししょう)の倉庫で9月まで、知らぬ人ばかり被災者13人が生活しました。毎日死体が校庭に運ばれ焼かれていました。昭和20年10月、南観音グランドに小屋を建て、約3年間生活しました。

食物は色々と救援物資(きゅうえんぶっし)を受けましたが、嘔吐(おうと)が8月8日ころから約1ヶ月続き何を食べても嘔吐し、「ヨモギ」を煎(せん)じ、これを飲んでいました。今から考えてみますとヨモギで命拾いしたように思います。その他ドクダミ草、ミコン草も煎じて、薬代わりに飲みました。医療(いりょう)は1度、江波町(えばまち)小沢医師に受診しましたが、医師は首を傾けられたばかりで、何もしてはいただけませんでした。(8月中旬)

行商・内職・家政婦

昭和20年10月から、南観音グランドの小屋での生活でした。被爆後12日間は着るものも無く、裸同然であったことは先ほど記載しておりますが、幸いにも重要書類と阿弥陀像(あみだぞう)は風呂敷に包み、肌身(はだみ)につけていましたので助かりました。8月17日、己斐(こい)橋のふもとで竹田呉服屋(ごふくや)さんが焼け残り、衣類を売っていると聞き買い求めに行きました。その時の嬉しかった事は今でも忘れません。

いつまでも遊んでもおられず、行商(ぎょうしょう)を昭和23〜29年の6年間続けました。島根県から魚を仕入れて売ったりして一時凌(いちじしの)ぎをしておりましたが、体調が悪くなり、またミシンの内職に戻りました。

内職はあまりお金にならず、そこで昭和38年から48年まで、宇品町(うじなちょう)にある安井家政婦会(かせいふかい)に入会し働いていましたが、両下肢の坐骨(ざこつ)神経痛がおこり、十分には働く事が出来ませんでした。カヅエ姉の娘で結婚して今は能美島 (のうみじま)に居住しているただ1人の姪が、被爆当時吉島町(よしじましょう)にいたとの事でしたが、交流が無かったので私は知りませんでした。

楽しみな法話(ほうわ)

所持金も少なくなり、坐骨神経痛も出て体調も悪くなるばかりで、これ以上1人で頑張る事も出来ず、市役所原対援護課(げんたいえんごか)に相談に行きましたら、係りの職員が当ホームのことを話してくださり、昭和52年7月1日入所する事が出来ました。入所後いつとなく体の調子も良くなり、自分の事だけは出来るようになりました。今ではクラブ活動として、生け花、茶道、舞踊クラブに入り、お稽古事(けいこごと)に生きがいを感じています。また、別院(べついん)からの月3回の法話にあずかる時が1番に楽しい時です。

私の様に孤老(ころう)に近い者にとっては、ただ、如来様(にょらいさま)のお慈悲(じひ)と念仏尊(ねんぶつそん)の大きな「力」が広大無辺(こうだいむへん)の喜びです。

岡崎チヨコ (71歳) 記

被爆地
加古町、親戚の屋内(爆心地より1.0km)
当時の急性症状
背部、頚部(けいぶ)、両下肢大腿部(りょうかしだいたいぶ)、両上肢(りょうじょうし)からの出血があり手指が紫色になった。嘔吐(おうと)が8月8日から約1ヶ月続き下痢(げり)が8月20日から1年間あり、脱毛が9月28日から12月まであり、丸坊主(まるぼうず)同様となる。発熱は9月上 旬から1ヶ月続いた。
家族の死亡
従兄弟(いとこ)の子供被爆死(加古町)




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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