4.妻が爆死をのがれた

生いたち

私は、広島市大須賀町(おおすがちょう)の鶴羽(つるはね)神社の近くで生をうけました。父・杉原勝蔵、母勝子の3男として出生し、兄2人、姉2人の5人兄弟でした。父は、当時農学校の先生をしておりました。市内に2〜3ヵ所の土地も有って、家は割に豊かでした。私は荒神(こうじん)小学校に入学しましたが、6年生のとき東京市江戸川(えどがわ)、牛込(うしごめ)小学校へ転校しました。これは、母の兄に当る伯父(おじ)が、東京で貿易商をしていたので、この伯父のもとへ行くことになったからです。そのころ、長姉が東京牛込中里町(なかざとちょう)に嫁(とつ)いでいたので、ここから牛込小学校に通学しました。小学校を卒業後、成城(せいじょう)学園の中等部に入学しましたが、中学4年生のとき、広島の父が急死したので、私は広島に帰りました。父は、64歳で死んだのです。

父の死後、私たち一家は大須賀町の土地と家を売って、同じ市内の白島九軒町(はくしまくけんちょう)へ移り住みました。この土地、家は、私の家の所有でした。私は当時19歳でしたが、母と長男夫婦、子ども3人の7人家族でした。そのうち、父の弟が、呉市(くれし)本通(ほんどおり)で雑貨商をしていましたので、この叔父(おじ)の店で働きました。そして、3年間くらい、叔父の商売を手伝いましたが、叔父と意見が合わず、広島市に帰って来ました。

それから、22歳の時、広島市宇品町(うじなちょう) 陸軍運輸部(りくぐんうんゆぶ)に勤務し、40歳まで18年間つとめました。32歳の時、30歳だった徳田ヒサと結婚し、同じ白島九軒町に新居を持ちました。私たち夫婦の間には、子どもはとうとう恵まれませんでした。前にも書きましたように、40歳ころ、陸軍運輸部を退職しました。

一片(いっぺん)の骨もなく

昭和20年8月6日の日は、妻が腹痛で寝込んでおりました。私は、妻の腹痛の薬を買いに1キロばかり離れた薬屋に行きました。薬屋に入り調剤(ちょうざい)してもらっていた時です。突然、大音響がして、大きい爆弾(ばくだん)が薬屋の5〜6軒先にでも落ちたように感じました。この薬屋は木造の建物でしたが、これがこの瞬間、あちこちくずれ落ちたので、私は飛ぶようにして1人で外に出ました。幸いに、私は無事でした。外に出て見ると、今の原爆ドームの上空あたりに、「きのこ雲」がたちこめておりました。私は、妻や家のことが急に気にかかり、走るようにして家に帰りました。帰る途中、道路に、もう10人あまりの人が倒れて動けなくなっているのを見ました。また、家に近づくあたりで、付近の家から火の手が上がっておりました。

家に着いてみますと、2階建の私の家は、家全体が北側に傾いておりました。妻は6畳の部屋に寝ていたが、原爆(げんばく)におどろき、寝床から立ち上りぼう然と立っていたのです。私はすぐ避難(ひなん)を思い立ち、500メートルばかりはなれた太田川(おおたがわ)川岸をめざして、布団と蚊帳(かや)を背負い妻を連れて、川岸に行きました。川岸に着いてみると、付近の人たちが、みんな避難して来て、この川原はいっぱいの人でした。私たちはこの川原で1夜を寝ずで過して、朝を迎えました。避難してきた人の中で、火傷(やけど)のため、川に入って死んだ人は数えきれません。川の水の満干(まんかん)で、これらの死体が、水が満ちると上流へ、水が引くと下流へと流されてゆく光景は、悲惨(ひさん)そのものでした。

私側の近親者は、無事でしたが、妻側の近親者は大変でした。当時、妻の実家は、市内横川町(よこがわちょう)にありました。妻の実家には父母は亡く、妻の兄弟も既(すで)に死亡して、その子の姪(めい)や甥(おい)がおりました。8月6日は、ちょうど、亡き父母の法要(ほうよう)の日に当たり、私たちの住んでいる近くの心行寺(しんぎょうじ)に姪や甥が来ておりました。30歳代の姪2人、18歳の甥、姪の子2人計5人が寺内に入り、法要の始まるのを待っていたのです。この時原爆が投下され、お寺はくずれ落ちて燃え出しました。この5人は、おそらく、お寺の下敷となり、焼死したものと思いますが、焼あとには1片の骨すら残っていませんでした。妻はこの法要に参列の予定でしたが、用事を思い出し、家に帰っていた時原爆が落ちたのです。このため、妻は助かったのですが、近親者5人のことを思って夫婦で泣きました。私たちの家も類焼(るいしょう)して、その日のうちに、焼失しました。

16年間妻の看病

8月7日朝になって、避難した川原をあとに、かねて私たちの家財を疎開(そかい)していた戸坂町(へさかちょう)の農家の知人をたずねました。知人のうちは、家族をはじめ建物全部無事でした。それ以降、私たちはこの農家の座敷(ざしき)の一間を借りて、昭和20年10月ころまで住んでおりました。こうして、この農家に厄介(やっかい)になっていたのですが、この間、白島九軒町の焼あとにバラック建を建築しましたのが、10月末ころ完成しました。このバラックに、私たちは農家から引揚げて帰って来ました。

帰ってから、さっそく食料に困りました。帰ったその翌日から何回となく買出しに出てゆきました。北は三次(みよし)、南は能美島(のうみじま)、東は尾道(おのみち)の向島(むかいしま)にと、妻と一緒に食料をたずね歩いたのですが、思うように売ってくれませんでした。そこで、私の親しい友人の姉の嫁(とつ)ぎ先である四国の農家に友人とたずねて、香川県(かがわけん)まで足をのばしました。こうして米を1 (と)、2斗と背負って帰って来ました。この香川県には、かなりの期間往復したものです。そのころの私たちは、このように食生活に苦しみました。そのうち、私たちの家の隣地が整理されて、300坪ばかりの空き地が出来たので、これを借り受け、小麦、サツマイモ、ジャガイモなどを作り、この収穫で食料を確保できました。

こうして、昭和21年12月、前から病んでいた妻は、リウマチがひどくなって寝たきりになってしまいました。住んでいたバラック建の家も建築後3年あまりになり、いたみがひどいので、これを取りこわし、このあとに本建築で平屋4室の家を建てました。しかし、この家も土地付で、他人の手に渡りました。16年間も病床に伏した妻の往診料(おうしんりょう)、薬、注射など、医療費の借金が出来てしまったからです。そして妻は、38年10月に、薬石(やくせき)効なく46歳で死亡しました。この16年間、私は妻の病床で介抱(かいほう)に専念しました。妻が亡くなってからは、東白島町(ひがしはくしまちょう)の「白島アパート」に移り住みました。こうして、妻の看病から離れ、市内本川町(ほんかわちょう)2丁目の中島鉄工所で働くことにしました。この鉄工所に昭和43年6月まで勤めました。

新聞で知りホームに入所

中島鉄工所を辞(や)めてから、近くの新聞販売店の集金の仕事をしておりましたが、年齢も70歳を過ぎて、1人暮しで不便でした。昭和45年に新聞で、広島原爆養護ホームの開設を知り、私は進んで入所しました。入所してみて、本当に良いホームに入所できたと喜んでおります。職員の方たちにも親切にしてもらい、毎日を安心して暮せるので感謝しております。

杉原敏夫(83歳) 記

被爆地
東白島町(ひがしはくしまちょう)自宅より1kmの薬屋の店内(爆心地より1.5km)
当時の急性症状
特になし
近親者の死亡
妻の姪(めい)2人、甥(おい)1人、姪の子2人、計5人が被爆死




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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