5. 被爆で柱の下敷になって

生いたち

山県郡(やまがたぐん)豊平町(とよひらちょう)で農業をしていた井下菊平、タツとの間に、1人娘として出生しました。耕作農地は、6(たん)ぐらいでした。私は、豊平町の明倫(めいりん) 尋常高等小学校(じんじょうこうとうがっこう)を卒業、父母と一緒に農業に従事しました。20歳のとき、山県郡吉坂村(よしさかそん)の下川次郎と結婚しました。主人が国鉄に勤務していたので私たち夫婦は結婚直後、広島市三篠町(みささちょう)に住みました。

その後10年ぐらいして、事情あって離婚しました。私は実家に帰りましたが、4ヵ月くらい過ぎて、山県郡八重町(やえちょう)新市(しんいち)から40歳だった大田逸二に養子(ようし)として来てもらい再婚しました。結婚直後、私たち夫婦は広島市舟入幸町(ふないりさいわいちょう)に家を持ちました。当時主人は、広島市吉島町(よしじまちょう)の軍需(ぐんじゅ)工場に勤務しておりました。私は家事に従事(じゅうじ)していましたが、昭和16年肺結核(はいけっかく)になり、広島日赤病院に通院し、治療(ちりょう)を受けました。私が病気になったこのころから、実家の母に来てもらい、一緒に暮らしました。

被爆時の状況

昭和20年8月6日当日、私は母と一緒に家におりました。原爆投下の瞬間、光がピカッと目に入りました。同時に私の家の天井(てんじょう)、屋根が落ちてきて、私は大きな柱の下敷になり、左手肱(ひじ)を骨折しました。その時、私は台所で朝食の後始末をしていたように記憶しています。ふと玄関の方を見ると、もう火災が発生しておりました。隣家(りんか)の主婦が、私が大きな柱の下になっているのを見て、「早く出ないと、火に包まれるよ」と言いながら、私の体を引っ張るようにしてくださったのです。私はケガをしていない右手を使い、助けてもらって、ようやくはい出しました。急に母のことが気になって周囲を探しましたが、見つかりません。

主人は、その日、軍需工場を休んで、隣組(となりぐみ)の組長の集りに出ておりました。集りが終わって帰宅途中で、ピカッと光ったのです。私の家の角で電柱が倒れ、その下敷になって下半身が大ヤケドになりました。両ももの皮膚(ひふ)がたれ下っているのを見て、私は目をおおいました。以前から、被災(ひさい)したときは草津町(くさつまち)へ避難(ひなん)するように、隣組で申し合わせがしてあったのですがとっさの事で私は、隣組の人たちと一緒に江波町(えばまち)に向け避難しました。主人はこわれた家に入り、衣服をさがして、どうにか衣服を身につけ町内に残りました。江波町につくころ、空から真黒い油が降って来ました。これをさけるため近くの防空壕(ぼうくうごう)に入ろうとしたら、兵隊(へいたい)さんが入っていて、私たちは入れません。仕方なく舟入町へ引返しました。途中、心配していた母とばったり会いました。見ると、片足首の下方が指先に向け皮膚がむけて、赤身が出ていました。さっそく、母と一緒に引き返しました。私の家まで帰り着き、隣組の人たちといた主人と合流し、そこにいた30人くらいで己斐町(こいまち)にたどり着きました。途中、橋が全部落ちていましたが、舟で向う岸(むこうぎし)に渡って、どうにか己斐まで行き、その晩はみんなで近くのウリ畑で寝ました。

被爆後の生活

翌8月7日朝7時ころ、それぞれ身よりをたずねることに話が決まりました。私たち3人は、山県郡八重町(やえちょう)をたずねることにし、徒歩で三滝町(みたきちょう)へ、そこから可部線(かべせん)の電車で、飯室(いむろ)で下車して、飯室小学校に行きました。小学校はそのとき兵隊の宿舎になっていましたが、お願いして、ここで2晩泊めてもらい、小学校に着いて3日目の朝方、近くを通っていた八重町の知人に出会いました。その時、主人と母は被爆(ひばく)のため歩行困難な状態でしたから、この知人にお願いして、八重町に引き返してもらい馬車をやとってもらい、この馬車で八重町に行き、主人の兄の家に厄介(やっかい)になりました。

兄に長く厄介になるわけにゆかず、八重町十日市(とうかいち)の借家を見つけました。この家は大きな家で、老人夫婦が住んでいました。この裏の2間を借りて一応、落ち着きました。住まいはこれですんだのですが、今度は食べることです。ここに住んだ3ヵ月間は、主人の兄嫁がよくしてくれ、米や麦を運んでくれました。1ヵ月くらいして、母は65歳で亡くなりました。このころ、家主の老人夫婦から家を出るように言われ、仕方なく、近くの旅館の裏2階に転宅しました。ここに1年間住みましたが、それ以上おいてもらえず、隣家のおばあさん1人が住んでおられる2階建の家を借りました。この家には、30年あまり住みました。

主人はその後、療養(りょうよう)のかいがあって、八重保健所に勤務し8年間勤めました。その後、八重郵便局に勤め、死ぬまでこの郵便局で働きました。私は、この家に住んで3年たったころ、近くにあった1反ばかりの水田を借り受け、昭和50年まで農業に従事しました。主人の死後、1人になっても農業は続けましたが、身体が続かぬようになり、しまいには農業もやめて、生活保護を受けて暮らしておりました。そのうち、私の住んでいる借家が売りに出され、借家を出ることになりました。

原爆養護ホーム入所前後

住んでいる家が売りに出されて、おられなくなったので、親類の者とも相談し、八重町役場のすすめで広島原爆養護ホームを知り、入所することに心を決めました。昭和53年4月26日に入所しました。入所以来、毎日を楽しく、感謝の日暮しをしております。私は原爆の被爆者として、被爆後数年間、飛行機の爆音(ばくおん)を聞くたびに走って物かげにかくれました。今でも、ホームで飛行機の爆音を聞きますと何か不安でなりません。また、親類の者の中には、被爆で全身ケロイドが出来て、このため、毎年のように身体に痛みがあって、そのつど、原爆病院への入退院を繰返しております。これは、死ぬまで続くことでしょう。このように考えますと、戦争は2度とあってはならないと思っております。

井下ハツコ(79歳) 記

被爆地
舟入本町(ふないりほんまち)・自宅家屋内で被爆した(爆心地より1.5km)
当時の急性症状
左肱(ひじ)骨折、8月6日から2年間不具合(ふぐあい)で困った。頭痛、8月6〜20日ごろまであり。
家族の死亡
なし。




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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