10.熱が有ったので命拾いした私

生いたち

私は南竹屋町(みなみたけやちょう)で、父・河上洋助、母・ミチコとの間に、4姉妹の3女として生まれましたが、他の姉妹は小さいころに皆なくなりました。父は以前に京橋町(きょうばしちょう)で、かなり大きな菓子商を営(いとな)んでいたそうですが、人の保証人になったばかりに迷惑を受け、私がものごころついたころには、呉服(ごふく)の行商をしておりました。7歳の時、母が病気で亡くなり、それからは父がひとりで育ててくれました。

 

竹屋尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)の高等科を卒業後、家事手伝いをしておりましたが、20歳の時に、広島県世羅郡(せらぐん)徳良村(とくらむら)の多田春男と結婚をしました。長女・久子を出産、産後が悪くて、2年後に子どもを置いて、離婚しました。その当時、父もあの世に旅立って行き、婚家先に残して来た子どもの事を気にかけながら、病弱の身でひとり暮しをしておりました。

 

昭和3年11月に知人の世話で、東雲町(しののめまち)の佐久間良三郎と再婚いたしました。良三郎は、逓信省(ていしんしょう)に勤務しており、先妻の残した当時8歳の里子を1人で育てておりました。里子は20歳の時、呉(くれ) 工廠(こうしょう)に勤務していた田村敏夫と結婚し、祥子・紀代子・博之と、3人の子を出産し、幸せに暮しておりました。次第に太平洋戦争が激しくなり、私も隣組(となりぐみ)の世話などをして忙しい毎日を送っておりました。

被爆時の状況

昭和20年8月6日、原爆投下された当時、現在広島大学病院のある旧兵器廠(へいきしょう)の近所に住んでおりました。7月、娘が、呉の大空襲(くうしゅう)に遭(あ)い、産後の身で子どもを連れ火の海の中を逃げ回ったのが原因で、体をこわし、私方で養生(ようじょう)しておりました。私は、3人の孫の世話をしながら、隣組の組長をしたり、兵器廠へ勤労奉仕(きんろうほうし)に行ったりで忙しい毎日でした。

8月5日にも建物疎開(たてものそかい)のお手伝いに行き、無理をしたのがたたり、その夜38度も熱が出ました。今思えばそれが大変幸運だったと思います。8月6日も引き続いて奉仕に行く予定になっていましたが、熱が下がらないので起きることができず、主人も遅れて家を出ましたために、命拾いをいたしました。主人は逓信省を定年退職し、当時修道学園(しゅうどうがくえん)中学に勤務していました。8時15分、家が大揺れに揺れて、天井(てんじょう)の方から瓦のこわれたものやら土くれやら煤(すす)が、まっくろになって落ちて来て、目も開けられない状態でした。生まれて間もない孫を抱きあげ、頭や背中を瓦礫(がれき)に打たれながら、博之にケガをさせまいと必死になってかばいました。外に出ようとしても家中ガラスの破片が散乱していて、赤ん坊を抱えて1歩も動けず、どうしようかと困っている時、主人が額から血を流しながら帰って来て、子どもを抱き取ってくれました。私も自分では気が付きませんでしたが、方々にケガをしており、全身どろどろになっていました。

 

そのうち、被爆(ひばく)された方たちが、全身弾(はじ)けたような皮膚(ひふ)をぶらさげて、大勢逃げて来られ、これはただ事ではないと気付きました。娘は、ちょうど便所に這入(はい)っていたので、無傷(むきず)で助かり、5歳と3歳の孫2人は、外で遊んでおりましたが、近所の方が防空壕(ぼうくうごう)に避難(ひなん)させて下さり、無事でした。お昼ごろには主人の姉や従兄(いとこ)、その嫁など、大勢の親類の者や知人が、私方に逃げて来られ面倒を見て上げましたが、その中の何人の方は亡くなられました。

 

その夜は敵機(てっき)の来襲(らいしゅう)に備えて、畑の中に物干竿を4本立て蚊帳(かや)を吊り、病人や子どもを寝かせました。翌日、大正橋(たいしょうばし)の派出所へむすびを取りに来るようにと、連絡がありましたが、当番の人が恐れて行って下さらないので、私は組長としての責任上放っておく訳に行きませんので、1人暮しの男の方に頼みました。その方は、「自分は死んでも、悔いはないから」と潔(いさ)ぎよく、瓦礫(がれき)の道を辛い思いをしながら私と一緒におにぎりを取りに行って下さったので、やっとのことで、みんなに配給する事が出来ました。その時初めて、全市内が焼土(しょうど)となっているのを見て驚きました。

 

主人は毎日のように、親類の誰れ彼れ、近所の帰られぬ人々を、尋(たず)ねて歩き廻り、ほとんど家にはおりませんでした。たくさんの人を家では治療(ちりょう)が出来ませんので、近くの学校へ連れて行きました。教室はもちろん、廊下や校庭にも瀕死(ひんし)の体を横たえ、阿鼻叫喚(あびきょうかん)のありさまで、手当ても満足に出来ず、次々と死んで行く人、畑の土を掘って死骸(しがい)を焼く人などで、とても現実の出来事とは思えませんでした。

被爆後の生活

食物も無く、水も電気も無く、焼け出された親類の人、病気の娘、乳が無く飢えて泣く孫を抱えて、幾度か死んだほうがましだと思いました。やっと水道の水が蛇口から出はじめ、明るい電灯がつき、大切にしていた着物と引き換えに、白いお米を食べたとき、やはり生きていて良かったと思いました。

 

病弱でありました娘・里子が、3人の孫を残して他界(たかい)したのは、昭和22年、私が47歳、孫の博之が満1歳の時でありました。この博之を中学校卒業するまで私たち夫婦が育てました。

ホーム入所前後

昭和40年主人が亡くなり、孫の博之は大阪に就職し、私は1人になりました。以前から家主に、家を建て替えるから出てくれと、言われていたのですが、主人が生前(せいぜん)無理に頼んで、置いてもらっていました手前、仕方なく私はアパートを借り、内職と主人の恩給(おんきゅう)で生活しました。でも貧しくても、生まれて初めて他人に気がねをしなくて済む自由ですばらしい時代でした。

 

それから10年後、広島市の段原(だんばら) 再開発(さいかいはつ)で、立退く事になり、毎日方々部屋を探し回りましたが、老年の1人暮しと言うことで、どこでも相手にしてもらえず、町内会長のお世話で、昭和50年に原爆養護ホームに入所させてもらいました。入所当時はいろいろと悲しい事もありましたが、5年間を過ごした現在では、ホームの生活にも慣(な)れて、手芸クラブ・書道クラブ・茶道・舞踊クラブにも参加し、同室者の方々や職員方にも大切にしていただき、何の心配もなくもったいない日々を送らせてもらい、感謝の気持で一杯です。

 

それにつけてもあの日、原爆で亡くなられた人々が、かわいそうでなりません。35年たった今でも、あの時の惨状(さんじょう)を忘れる事が出来ません。つたない私の筆では思うことの万分の一も表現出来ないことが残念ですが、平和の続く事を願っております。

佐久間モトコ(80歳) 記

被爆地
東雲町・居宅の屋内(爆心地より3.0km)
当時の急性症状
負傷なし
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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