2.「おばさん助けて」の声を残して

生いたち

私は,山県郡(やまがたぐん)豊平町(とよひらちょう)で父、田中太郎、母、サエとの間に男1名、女6名中3女として生まれました。小学校は豊平町阿坂(あさか) 尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)を卒業したのです。父は、62歳の時、脳溢血(のういっけつ)で亡くなり、母は、87歳の高齢で老衰(ろうすい)で亡くなりました。姉は、生まれてまもなく亡くなったと聞いています。4女の妹は、昭和50年に68歳で心臓病で亡くなり、5女は、19歳で肋膜炎(ろくまくえん)で亡くなりました。弟も55歳でこれも心臓病で急死しています。今健在している姉妹は、当ホームにお世話になっています2女の姉・アサと豊平町に居住しています6女の妹と私で3人のみです。

私は、昔の事で14歳の時、親が勧(すす)めるので何もわからぬまま、山県郡(やまがたぐん)千代田町(ちよだちょう)の親戚、当時20歳だった峠春夫に嫁入りしました。6年間に2人の男子を出産しましたが、複雑な事情があり結婚生活に限界を感じ、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)も元気で若かったので、子ども2人は峠家に残し、離婚にふみ切り実家に帰りました。子どものことですが、その後長男は21歳で死亡、2男は健在です。

生活のために遊んでもおられず、伯父の杉周吉が鷹匠町(たかじょうたち)で貸衣装屋をしていました関係で、私は加古町の貸衣装屋に連絡係りとして働いていました。

生き地獄そのもの

加古町(かこまち)の借家で、姉のアサと、姉の娘・美保子と3人で住んでいました。

昭和20年8月6日の朝、姉は、勤務先、吉島町(よしじまちょう)の中国塗料会社(ちゅうごくとりょうがいしゃ)に勤めに出かけ、私と姪が屋内で被爆(ひばく)したのです。ピカーッと光って、後は覚えていません。どのくらい時間がたったのか、気がついた時は2階建が全壊(ぜんかい)し、私はその下敷きになっていましたが、幸いにも負傷は無く、その場から逃げ出す事ができました。

あてもなく、命からがら住吉川に逃れて行き、夜までイカダの上で過ごし、その晩は明治橋の上で1夜を明かしました。今でも思い出すのは一緒にいた姪の事で、家屋の下敷きとなり、「おばさん助けてー」と叫ぶ声が聞こえるも、探しようも、助けようもなく逃げたことです。本当にかわいそうなことしました。8月7日無事であった姉と2人で焼け跡に行き、姪の遺体(いたい)を見つけ、トタン板に乗せて明治橋の土手まで運び、大勢の死者と一緒に、警察官、兵隊さんに焼いていただきお骨(こつ)にしました。その状況は生き地獄(じごく)そのもので、今でも、いや一生忘れる事は出来ません。その後、姉と一緒に廿日市町(はちかいちちょう)平良(へら)小学校へ避難(ひなん)し、終戦の8月15日までそこにいました。

当時の食事は、小麦のご飯、味噌汁、うどんなどをよく食べたものです。体調は、8月9日ころから下痢(げり)があり、10日間も続き弱りましたが、薬も無く、医療機関も無く、治療(ちりょう)は何もしませんが、おかげがあったのか自然に止まりました。

特別認定患者となる

8月15日の敗戦(はいせん)を聞き、姉とともに山県郡豊平町の実家に帰り、10月まで厄介(やっかい)になっていましたが、海軍に現役(げんえき)で入隊していた2男の息子・輝広が、昭和20年8月末無事に除隊(じょたい)となり帰って来たので、10月、翠町(みどりまち)に間借りをし、しばらくして嫁をもらい3人の生活を始めました。

昭和21年2月に第五基町(もとまち)の市営住宅が抽選で当たり、基町へ転宅しましたが、孫が次々と3人生まれ、狭い市営住宅に休息する部屋も無く、体は弱く悩んでいました。そのころ、再婚の話が持ち上がり、35年、祇園町(ぎおんちょう)長束(ながつか)に居住していた75歳の上田友市と再婚しました.41年、81歳だった夫が脳出血で亡くなるまで約6年間は長束に居住し、死亡後は坂町(さかちょう)の知人を頼って、知人宅の留守番をして生活をしていたのです。

被爆後体調が悪く、昭和27年5月には胆のう手術。さらに30年には大腸の手術をいずれも市民病院にて、入院治療を受けました。その後、舟入病院(ふないりびょういん)の人間ドックに入った時、貧血症 (ひんけつしょう)と診断され、昭和34年10月19日、特別認定患者と認定されました。

ホーム入所前後

夫が亡くなった後、2回も大手術を受けるほど体が弱く、貧血症もあり、息子夫婦と再度同居したいと思い、息子に相談したところ、私があの子を置いて実家に帰った事を今でも快(こころよ)く思っていないようで、私は仕方なく山県郡千代田町の親戚(しんせき)に身を寄せましたが、なかなか思わしくありませんでした。前述しましたように人様(ひとさま)には言えない事情がありました。

その時、千代田町役場の職員さんが当ホームの話をしてくださったので、幸いと喜び、自主的に入所にふみ切りました。昭和50年6月1日当ホームへ入所する事が出来ました。

上田シズコ(74歳) 記

被爆地
加古町、姉の家の屋内((爆心地より1.2km)
当時の急性症状
負傷無し、下痢が8月9日から10日間あった。
近親者の死亡
一緒にいた姪(めい)被爆死。伯父が観音町(かんおんまち)で被爆死




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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