11.ボロのように焼けただれた人

生いたち

私は山県郡(やまがたぐん)大朝町(おおあさちょう)字・筏津(いかだづ)で、父・山岡公平、母・チヨコの間に、明治36年10月20日に長女として生まれ、妹が1人おります。両親は農業で生活しておりましたが、私が12歳の時に、父が亡くなりました。

 

土地の高等小学校を卒業し、大正12年、20歳のとき、同郷の石谷義人と結婚し、俊夫を出産しましたが、夫婦ともに長男長女のため入籍(にゅうせき)せず、俊夫は父親の方の籍に入れました。結婚後、主人は三篠(みささ)でガソリンスタンドを経営しておりましたが、昭和13年、腸チフスにかかり、舟入病院(ふないりびょういん)で亡くなりました。その後私は、当時、流川町(ながれかわちょう)にあった双葉洋裁学校に1年半くらい通学し、家で内職しながら、妹夫婦と同居生活しておりました。

被爆時の状況

昭和20年ごろには、宇品(うじな)・暁部隊(あかつきぶたい)縫工部(ほうこうぶ)に勤務しておりました。8月6日は、朝早く宇品に行き、船舶司令部(せんぱくしれいぶ)で、将校さんの服を縫っている時に原爆が投下されました。私は窓ガラスの破片で頭部を負傷し、しばらくの間意識を失いました。あの瞬間の事は、あまりよく覚えておりません。気がついた時には、顔や頭が血まみれで、出血が止まらないので、同僚(どうりょう)の方たちが、宇品の陸軍病院まで連れて行って下さいました。市内の方からトラックで運ばれて来た負傷者や、ボロのように焼けただれた人で満員となり、みんな、屋外に放置されていました。陸軍病院にも赤チンくらいしか薬がなくて、満足な治療(ちりょう)は受けられませんでした。

 

12時に帰宅命令が出て、我が家へと向いましたが、たびたび敵機(てっき)が襲来(しゅうらい)するので、避難(ひなん)をしながら、15分ぐらいで帰れるところを、2時間もかかって家に帰りつきました。その途中、体にぼろを着ておられるように肉がぶらさがっている人、黒こげになり石炭のようになって死んでいる人、防火用水の中に頭を突っ込んで息絶えた人、とてもこの世の中の出来事だとは思えませんでした。自宅は半壊(はんかい)し、とても住める状態ではなく、妹たちと相談し、8月9日、賀茂郡(かもぐん)大和町(だいわちょう)字・篠(しの))にある妹婿(むこ)の親類を頼って疎開(そかい)し生活しました。その間に頭のキズも自然に癒(い)えてきました。

被爆後の生活

昭和33年に、また広島に出て、段原(だんばら)日ノ出町(ひのでちょう)の綿工場で3年くらい働きましたが、被爆の関係か、10分から15分くらい意識不明となるのが度重なるので、再び田舎(いなか)に帰りました。昭和40年、妹の長女が広島の女学校に入学しましたので、姪(めい))と2人で段原山崎町(やまさきちょう)に家を借りました。私は、段原中学校の用務員となり、6年くらい勤務し、その後、またまた田舎に帰りました。

 

息子・俊夫のことですが、終戦当時は滋賀県(しがけん)の少年航空隊に入隊していました。無事に復員し、広島ガラスに長年勤務していましたが、現在では、機械工場に勤め、吉島光南町(よしじまこうなんちょう)に一家を構(かま)え、孫も女学校の2年生になりました。

ホーム入所前後

昭和46年ころからは、大和町で妹夫婦と同居生活しておりましたが、次第(しだい)に年を取り、体も弱って、肝硬変(かんこうへん)、慢性心不全で広島日赤病院に通っておりました。甥(おい)のすすめで原爆養護ホームに入所する決心をしました。

 

昭和54年7月に原爆養護ホームに入ってからは何不自由なく生活が出来、よく決心して入所したものだと喜んでおります。病院も、同敷地内に舟入病院(ふないりびょういん)があり、通院も楽で何も言う事がありません。息子も孫も、たびたび面会に来てくれ、楽しい日々を送っております。私の命の終る日まで、ホームでお世話になりたいと願っております。

山岡ツタ(77歳) 記

被爆地
宇品7丁目・船舶指令部の屋内(爆心地より3.5km)
当時の急性症状
頭部負傷
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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