19. 悲しみを乗り越えて

生いたち

私は、広島県世羅郡(せらぐん)神田村(かんだむら)萩原(はぎわら)において、谷村次郎、スエコの次女として生まれ、家業の農業を手伝いながら育ちました。豊田郡(とよたぐん)の農家へ嫁(とつ)ぎましたが間もなく夫が病没(びょうぼつ)しましたので、実家にしばらくおりました。友だちを頼りに、1人で広島へ出て働いておりました。縁あって、マッサージ師の織出寅一と再婚し、娘2人を神様から与えられ、戦時の苦しい生活ではありましたが本当に、幸せでございました。

 

運命の神様は、この幸せな生活を、悪戯(いたずら)にしてはあまりにもひどい、予期せぬ人類最初の原子爆弾を、私たちに見舞い、その瞬間、想像を越える、この世の生き地獄(じごく)が再現されたのでございます。

確認できぬ娘の遺体

主人と2人、家の下敷になっておりましたところを、近所の親戚(しんせき)の者に助け出され、迫り来る火より、必死になって、別院の川のほとりに避難(ひなん)しました。

 

長女は出勤途中、次女は登校中に被爆し、即死しました。娘2人の遺体(いたい)は今だに確認できておりません。

 

昭和20年8月6日の夜は、安佐郡(あさぐん)佐東町(さとうちょう)緑井(みどりい)のお寺へ避難し、炊き出しのおにぎりで飢(う)えを凌(しの)ぎ、翌7日山県郡(やまがたぐん)豊平町(とよひらちょう)の主人の親戚、竹山家へお世話になる事になりました。主人と2人、交通機関の不便も苦にならず、また、暑い夏も何のその、娘2人をほとんど毎日のように広島に出て、千田町(せんだまち)郵便局、また、広瀬北町(ひろせきたまち) 尋常高等小学校を中心に尋ね歩きました。娘2人はついに探す事が出来ず、毎日が気も狂わんばかりでした。

 

焼きつくような夏。一面焼け野原(やけのはら)となった広島の町。あちらこちらと瓦礫(がれき)の山の広島。死体処理(しょり)に一生懸命になっておられる方々。交通機関もなく、ただただ私たちを含めて、肉親を尋ね歩く方々。いずれもこの世の尋常一様(じんじょういちよう)な姿ではないように思われました。親として、子の生死が確認できないことは、本当に胸つまる思いでございます。この気持ちの整理に当分かかりました。

ただただ、呆然(ぼうぜん)

2人の娘を一瞬の内に失い、さらに、追打ちをかけるように被爆1ヵ月後の9月7日に主人が死にました。元気のようであった主人も毎日、酷暑(ごくしょ)にもかかわらず娘を探し歩いたのがこたえたのでしょう。日がたつにつれて弱り、豊平病院に約1週間入院して死にました。

 

本当に筆舌(ひつぜつ)に表すことの出来ない苦しみに、ただただ呆然としているだけでした。引き続き、主人の親戚・竹山家にお世話になっておりましたところ、大変気に入られ、竹山達一と再婚し、竹山家の一員として農業に励(はげ)む事になりました。

 

しばらくの間は病気もせず、元気で家業に励む事が出来ましたが、昭和52年5月に脳軟化症(のうなんかしょう)・慢性肝炎(まんせいかんえん)で豊平病院に入院治療を受け、全快はしないが、ある程度病状が回復し固定しましたので、同年10月退院し、当養護ホームに入所する事になりました。

娘を思い出し涙

入所して、優しい寮母さんに接するたびに、娘が生きておれば同じ年ごろだなあと、2人の娘を思い出して涙がこぼれるほどです。心から、ホームの職員、寮母さんに感謝しつつ、墓石と化した夫と娘の冥福(めいふく)を祈りながらの生活であります。このような、生涯忘れ得ない悲惨(ひさん)な思いをする戦争は再び繰り返してほしくはありません。

竹山 ムラ(80歳) 記

被爆地
広瀬北町(ひろせきたまち)・自宅の屋内(爆心地より1.5km)
当時の急性症状
右足先をちょっと負傷しただけ。被爆1週間後には頭髪が脱毛した。
近親者の死
長女(17歳)・千田町郵便局に勤務のため出勤途中被爆死、次女(14歳)・広瀬北町高等小学校2年在学中、学校で被爆死




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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