18.家の下敷から這(は)いでて

日本が勝つまでは

私の夫・田中良男は広島県畜産課(ちくさんか)の獣医(じゅうい)として勤務しておりました。住んでいた所は広島市東観音町(ひがしかんおんまち)2丁目で、夫婦(子どもに恵まれず)だけの生活でした。主人は東観音町町内会の役員で、私は銃後(じゅうご)の守り国防婦人会のお世話をさせていただいておりました。日本が勝つまではと、2人は一生懸命がんばり続けておりました。

人生の不幸はみじめ

昭和20年8月6日原子爆弾が投下されたときは、主人と私は自宅にいました。“ピカッ”光と轟音(ごうおん)。その瞬間、家は倒壊(とうかい)してその下敷となりました。私の体には大きな柱が倒れかかりその下敷になって、身動きできませんでした。助けてと叫び、夫に救いを求めましたが助けてくれません。夫も私と同じように下敷になっているのです。お互い声を掛け合い励(はげ)ましあいました。いくら助けを求めても、誰も助けてくれる人はありませんでした。夫は下敷から自力(じりき)で這(は)い出て、私の体にのっていた柱を取り除いてくれまして、やっとのこと家から脱出することができました。2人とも負傷しておりましたので、互いに助け合ってやっとのことで、東観音町内会の防空壕(ぼうくうごう) に避難(ひなん)して仮の治療(ちりょう)をしていただきました。防空壕では近所の皆さんと抱きあって泣き、言葉もだせないひとときでした。それから間もなく、時間に記憶はありませんが、黒い雨の夕立(ゆうだち)がありました。町内会役員の方からこのままではいけないので、とりあえず己斐(こい)小学校に避難をしようということになりました。皆さんとともに己斐小学校を目ざして歩きました。爆風により全壊、倒壊した家屋および焼失しつつある家屋、その道路を通るのに目にあまる状態でありました。時間をかけて夕方にやっと己斐小学校の救助班に収容されました。そこで2日間、傷の治療を受けました。

 

8月8日主人と徒歩で、己斐から広島駅をへて海田(かいた)駅にたどりつきました。そこから汽車で、賀茂郡(かもぐん)大和町(だいわちょう)の生まれ故郷の兄の家に落ち着きました。兄の家は医者なので、そこで治療を受けたのが幸いでした。だんだんと傷も良くなり、2ヶ月後に広島に帰りました。被爆地・ヒロシマでの生活は苦しく、体の調子をくずし、病気がちでお医者通いでした。今は老令のせいか体の調子が悪く、ホームに入所してよかったと思います。戦争は絶対反対です。人生の不幸はみじめです。

(田中静江さんはこの体験記を書かれた後、昭和55年5月25日に、心不全のため亡くなられましたことを付記し追悼(ついとう)の意を表します。)

田中 静江(79歳) 記

被爆場所
広島市東観音町2丁目自宅屋内
被爆距離
1.5km




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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