20.病苦と孤独とのたたかい

生いたち

私の父・山本健一郎、母・山本セキの男子2人、女子6人の8人兄姉妹の6女として、大正2年3月31日東千田町(ひがしせんだまち)で生まれた。末子で大手高等小学校を卒業。父は広島電鉄株式会社に勤務しておりました。

私が20歳のとき、病気で心臓と肝臓が悪くて父はとうとう亡くなりました。私は21歳のとき、呉市(くれし)中通りのダンスホールに勤めていました。26歳のとき海軍少尉軍人と結婚して、主人の勤務先、沖縄(おきなわ)の那覇市(なはし)で家庭を持ち生活しておりました。

子どもに恵まれませんでした。昭和19年、大東亜戦争(だいとうあせんそう) が激しくなったので内地(ないち) へ1人帰り、3番目の姉のうちでお世話になりました。姉の主人は海軍応召(おうしょう) され外地(がいち) 出兵しておりましたので、姉と一緒の生活を続けておりました。4女の姉が満州から単身で引揚げて来ましたので、姉妹3人の生活でした。それから私は主人と離婚して1人身(ひとりみ)となりましたので、勤めを竹屋町(たけやちょう)にあった薬品工場(軍に納入する)に通っていました。姉たちは安芸郡(あきぐん)馬木村(うまきむら)に4女の姉の主人の生家に疎開(そかい) 、お世話になり、私1人でした。

姉妹3人被爆

姉2人は安芸郡(あきぐん)馬木村(うまきそん)に住んでいましたので、広島に来るよう呼びに行きました。8月6日、ちょうど馬木村から広島に行く民間のトラックが出発することを聞いたので、便乗(びんじょう)させていただくことになり、朝6時に3姉妹揃(そろ)って馬木村を出発して、7時30分ころ、昭和町(しょうままち)の自宅に帰りました。

3人はようやく我が家に帰ったので、安心して玄関から廊下に座って休んでいました。空襲警報(くうしゅうけいほう) のサイレンが鳴り響き、まもなく解除(かいじょ)となりました。急に飛行機の爆音が響いたので、日本軍の飛行機が上空を飛んでいるのだと思っていた。が、とたん「パァッ」と光った。“どん”という大きな音、瞬間、私たち姉妹は、以前庭に掘っていた防空壕(ぼうくうごう) に落ちました。爆風(ばくふう) でそこに落ちたのです。呼吸が苦しくなり、気がついて「助けて」と叫び続けましたが、誰もいませんでした。防空壕からはい出ました。隣の奥さんが家の下敷になり、抜け出すことが出来ませんので、私が出そうと力を貸しましたが柱や棟(むね)が重いためどうすることも出来ませんでした。奥さんは「逃げてください」といい続けていました。その場で泣き別れとなりました。そのあとから聞いたのですが、主人が勤務先・三菱造船所から帰られて奥さんを助け出されたことを聞き安心しました。

先隣(さきどなり)の奥さんは洗濯物を干しに2階の物干場に上がったところ、爆風で地上に落とされて、全身やけど、血だらけで、頭に切傷をしており、衣服はシミーズ1枚だけでした。私は倒れた家まで救急袋(きゅうきゅうぶくろ) を取りに行き、その袋から三角巾(さんかくきん) を取り出し、頭の血止めをしました。奥さんと私たち姉妹、ともに歩いて、比治山(ひじやま)橋を渡り、電信隊の前を通り宇品(うじな)線電車通りに出て歩いていたところ、隣の奥さんは治療を受けるため電信隊に入門されたので、そこで別れました。

私たち姉妹は広島駅に向かいましたが、途中でケガをした人、すでに亡くなっておられる人を見ながら猿候橋(えんこうばし)にたどり着きました。私たちの住んでいた昭和町の方向を見ましたところ、大火災で真っ赤に燃えています。猿候川の電車鉄橋の枕木(まくらぎ)が焼けつつあるところを渡り、愛宕町(あたごまち)に出ました。

寝たら死ぬよ

愛宕町(あたごまち)の道路の両方の家屋(かおく)は焼けつつあり、その火の間をくぐり抜けて、ようやく火災のないところに着きました。どの辺か覚えておりません。水道栓が破れて水が漏(も)れていましたので、水を飲んでいると、後ろから「おばちゃん水を飲まして」という小さな声がしました。後ろを振り向いたら、1人の女学生の顔と両手が焼けて皮膚(ひふ)の皮がぼろぎれのようにたれ下がっており、かわいそうでなりませんでした。私は手に水を汲(く)んで飲ませてあげました。その周囲には十数人の女学生が横になってすやすやと寝ていましたので、「寝たら死ぬよ、起きなさい」とほっぺたを叩(たた)いて歩きました。そのうち2〜3人が目を開けました。

その場所をあとにして避難先(ひなんさき)の安芸郡馬木村に姉妹力を合わせて歩いて進んで行きました。

気になる広島

馬木村に着いて後は義兄(ぎけい)宅や、近所の農家の手伝いをしながら、体の療養(りょうよう)を続けておりました。収入もなく、わずかに持っていたお金を少しずつ出して生活を続けていました。姉の実家の家族にはよく面倒(めんどう)を見ていただきました。やはり気になるのは広島のこと。姉妹3人どうしても広島で生活したい。相談の結果3人目の姉を残して4番目の姉と私の2人で21年8月に、1年間住みなれた馬木村をあとにしました。

もと住んでいた昭和町の焼け跡にバラックの掘立小屋(ほったてごや)を姉妹2人で建てました。焼けた柱・板を使い、屋根は焼トタン、焼けた瓦を置いて、雨露(あめつゆ)をしのぐ家でした。身体の不自由な姉と2人で苦労して建てた我が家、それは楽しい思い出の我が家でした。生活のため、私はダンスホールに勤めて一生懸命にがんばっていました。30年に東京の観光旅館で働くことになり、広島をあとにしました。

原爆病院に入院

元気でおりましたところ、昭和36年に姉から乳癌(にゅうがん)で原爆病院に入院手術することになったので、広島に帰って看護してくれるよう、再三(さいさん)にわたり連絡がありましたから、姉のことでもあるし付添(つきそ)うことにしました。看護を12ヶ月続けました。姉も良くなり退院しましたので姉妹で喜び合いました。私は東京の職場に帰ろうと思って荷物を整理していたところ、腰部に疼痛(とうつう)があり歩けなくなりました。原爆病院に通院治療を続けていましたところ、じょじょに病気が悪化して来ましたので、38年12月原爆病院に入院しました。それから昭和45年まで7年の間入院治療を続けました。

ホームがあればこそ

原爆病院の主治医(しゅちい)の先生から、病状も固定していると言われました。昭和45年に、広島原爆養護ホームが開設されることを知らされましたので、私は進んで希望して入所させていただきました。私たちのような、身寄りのない、また、病気で苦しんでいる者は、このようなホームに入所していなかったら、10年間も生きながらえることは出来なかったと思います。ここに入所して、私は毎月病気とたたかっていますが、まだまだ死にたくありません。これからも頑張ります。本当にこのホームが出来て、心からよろこんでいます。

山本フサコ(67歳) 記

被爆地
昭和町、自宅の屋内(爆心地より1.6km)
当時の急性症状
嘔吐(おうと)が1週間続き体がだるくて起きられなく、休んでいた。
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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