14.閃光と龍巻について

生いたち

私は父・香屋金三、母・マサコの3人兄妹の末子として出生しました。父は広瀬元町(ひろせもとまち)で下駄(げた)の製造を営んでいました。本川小学校高等科2年を卒業してから、家事の手伝いをしておりましたところ、昭和18年10月2日、児島恒と結婚しました。

 

大東亜戦争(だいとうあせんそう)は拡大し、米軍の空襲(くうしゅう)は日をおって多くなりましたので、毎日を戦々恐々(せんせんきょうきょう)としながら苦しい生活でした。夫と2人暮しで上幟町(かみのぼりちょう)に住居があり、勤め先は兵器を製造しておりました。日本製鋼所の鋳造部(ちゅうぞうぶ)に所属(しょぞく))し、砲身 (ほうしん)の生産鋳物部伍長(ごちょう)で一生懸命の努力を続けておりました。8月5日が出勤で、8月6日は休日で家で休んでいました。

親の死に目に会えず

8時に空襲警報が発令されて10分後に警戒警報解除となりましたので、夫は廊下で釣道具を整理しており、私は部屋のタンスの前で片づけをしていました。8時15分、突然閃光(せんこう)を浴(あ)び、大音響がしたと同時に、めりめりと柱・壁・建具(たてぐ)・窓ガラスがバラバラとなり、フスマ・障子(しょうじ)・家財道具など、爆風で飛び倒れ、夫と私は、その下敷きになりました。主人と声をかけあって、やっとのことで家から抜け出て縮景園(しゅっけいえん)に逃げ、避難所(ひなんじょ)に入りました。30分くらいしてから龍巻(たつまき)が起こって、「ヒョウ」が降りました。しばらくして敵の偵察機(ていさつき)が来た時は、もうこのまま死ぬのではないかと思いました。

 

8月8日、下流川町(しもながれかわまち)の日本勧業銀行(かんぎょうぎんこう)広島支店に罹災証明(りさいしょうめい)」をもらいに行きましたときに、乾パン2袋をいただきました。証明書を受け取り八丁堀(はっちょうぼり)に出て帰る途中、道路の両脇の死体の山や防火水槽(ぼうかすいそう)に頭を突っ込んで死んでいる人をたくさん見ました。実に悲惨(ひさん)なことでした。涙が出て仕方がありませんでした。

 

私の家は倒れたあと火災となり、隣近所1軒も残っていません。焼野ケ原(やけのがはら)となっております。とりあえず安全な所をもとめて兄嫁宅を訪問することに決め、夫と2人で三篠(みささ)橋を渡り横川(よこがわ)駅を北へ徒歩で安佐郡(あさぐん)八木村(やぎむら)にたどりつきました。広瀬町(ひろせまち)の自宅は全焼で、父は自宅で家の下敷、母は土橋(どばし)附近の電車の中で頭や体に大ケガをしたことを兄嫁宅で聞き驚(おどろ)きましたが、どうすることも出来ず、その晩は泊めてもらいました。

 

翌10日、高田郡(たかたぐん)向原町(むかいはらちょう)の主人の兄宅に当分お世話になることにしました。悲しいことは8月17日母が、9月1日に父がともに苦しんで、とうとう亡くなってしまったことです。死に目に会えなかったことが残念でなりません。

まだまだ生きなければ

私は、昭和22年3月、助骨(ろっこつ)の痛みで段原町(だんばらまち)の中山医院で診察してもらったところ、背椎(せきつい)カリエスであると診断されました。引き続き自宅で養生(ようじょう)していましたが、薬などはなく、だんだんと悪くなっていきました。

 

昭和41年2月、夫が東雲町(しののめまち)の製缶工場で仕事中に、モーターの事故により腹部を強打、内出血で入院し、その付添いをしていました。私も背椎カリエスが再発しましたので、五日市町(いつかいちちょう)・今中病院で2人とも入院生活を続けました。夫の外傷はだいぶん良くなりましたから、私を介護してくれました。看護疲れだと思いますが、夫は「肺気腫(はいきしゅ)」で47年4月、私の体を心配しながら亡くなりました。私は本当に生きる望みを失いましたが、まだまだ生きなければならないと思い、努力を続けております。

 

昭和48年に福祉事務所のお世話で原爆養護ホームに入所手続きをして、入所させていただきました。皆さんに良くしていただき感謝の日々を送り、私は今大変幸せです。

児島 アサ(60歳) 記

被爆地
上幟町(爆心地より1.1km)
当時の急性症状
外傷なし。異常はメンスの不順のみでした。
近親者の死亡
父・香屋金三、母・香屋マサコ




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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