15.永生きして良かった

生いたち

 

私は父・松井寅太郎、母・フサの長女として出生。22歳で山口県田中家に嫁(とつ)いだが、事情ありて生別す。

被爆――衰弱(すいじゃく)する体

夫63歳、私43歳。河原町(かわらまち)自宅にて被爆する。夫・若尾宗三郎と2人で家屋の下敷きとなりましたが、幸い外傷もなく、着の身着のまま素足(すあし)のままで、無我夢中(むがむちゅう)で歩いて逃げたのです。火の手が追ってくるし、暑い中をたくさんの人々とともに舟入町(ふないりまち)を南の方へ行って、お寺で水を飲ませていただき、そのまま大勢の人々とお寺で夜を迎えました。そのお寺の名前もすっかり忘れましたが・・・。7日夕方ごろ、おむすびを配給されておいしかった事、その嬉しさは今も忘れられません。

 

お寺で1週間くらい過ごしたと思いますが、3日目の夜、廊下の下の防空壕(ぼうくうごう)に入るとき、足をすべらせて落ち、頭から出血したけれど、医者も薬もなくて困っていたのを覚えています。いつまでもお寺にいるわけにもいかず、夫の長男が海田市町(かいたいちちょう)に住んでいたのをたよって行き、厄介(やっかい)になりました。そのころから主人は下痢(げり)がひどくてすっかり衰弱(すいじゃく)しました。私も下痢、口からの出血で苦しみました。海田では横萩方に身を寄せ、初めて近所のお医者さんに診ていただくことが出来ました。おいしいイチジクをたくさんもらって食べました。

秋ごろ、頭髪がすっかり抜け、頭の寒かったこと。深い川のきれいな川の水で髪のない頭を洗って見たり祈ったりしたこと。髪油の入手できぬ時代でしたのに、友人から油をいただいてつけたこと。その油の効果からでしょうか、半年後ぼつぼつ髪が生えてきてうれしかったこと。たくさんの知人の厚意(こうい)で、種々(しゅじゅ)の野菜をいただき、健康を取り戻すことができて、やっと夫とともに生活できるようになり、段原町(だんばらまち)に住みました。やっと落ち着いたと思ったら夫は病死し、1人暮らしの私は、腰痛と貧血症(ひんけつしょう)のために原爆病院へ入院生活するようになり、歩行困難(ほこうこんなん)となりました。

戸外へ出るのが楽しみ

昭和48年当ホームへ入所。設備の良いホームで、安心した毎日を過ごせてありがたく思います。現在歩けないのが残念ですが、車椅子で公園や運動会、盆踊り大会など、行事のたびに戸外へ出たりするのが唯一(ゆいいつ)の楽しみです。先日何年ぶりかでバスに乗り、安佐(あさ)動物公園に連れて行っていただき楽しい1日を過ごしました。往復の車窓から郊外の発展した様子を見て驚くとともに、子どものいない1人ぼっちの自分が、今日まで長生きしていて良かったと思いました。それとともに、私は日夜お世話してくださる方々に感謝でいっぱいです。(昭和55年12月記す・昭和58年1月16日死亡す)

松井 初子(79歳) 記

被爆地
河原、自宅の屋内(爆心地より1.1km)
当時の急性症状
外傷なし。9月に入って下痢あり。頭髪が次々に全部抜けた。
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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