13.被爆の娘を抱いて

生いたち

私は、比婆郡(ひばぐん)美古登村(みことそん)大字大屋(おおや)中迫(なかさこ)で、父・保田寅造、母・クミコとの間に2女として生まれました。父は、私が9歳の時、48歳で心臓マヒで亡くなり、母は、7歳の時、38歳で急性肺炎で死亡しております。

 

両親を失った時点で母の実家、比婆郡西城町(さいじょうちょう)大屋、福本家に引き取られ、伯父(おじ)、伯母(おば)の世話になり成人しました。5つ年上の姉は、祖父・友田阿兵衛へあずけられました。私は、美古登村・大屋尋常小学校(じんじょうしょうがっこう)を卒業しました。姉・シゲ子は祖父の家を早くから出て恋愛結婚し、姉妹の交流はほとんどありませんでしたが、昭和30年、60歳で、北九州市(きたきゅうしゅうし)若松(わかまつ)で亡くなったと聞きました。子どもは、1人もいなかったようです。

 

姉が恋愛結婚で他家(たけ)に行ったので、私は、20歳の時お世話する人がありまして、同村の28歳だった宮田三郎を婿(むこ)に迎え、保田家を相続することになりました。そこで、1男・1女を出産しました。長男・信夫が小学5年生、娘・千江が小学1年生の時、39歳の夫が筋炎(きんえん)で2〜3日の患(わずら)いで亡くなりました。娘は亡父の実家にあずけ、長男のみを連れて三次(みよし)に出て働きました。生活のために紙工場の女工、線路工事の手伝いもしました。

 

そのうち息子も学校を卒業し、東洋工業(とうようこうぎょう)の旋盤工(せんばんこう)として働いてくれるように成長しましたが、当時の徴兵検査(ちょうへいけんさ)で広島の部隊に現役入隊となり、その後、中支(ちゅうし)へ出征(しゅっせい)する運命となりました。娘・千江は、尋常小学校卒業後は、私と一緒に生活することになり、白島町(はくしまちょう)にあった広島県立工業試験場に勤務し、私も昭和18年5月より、大須賀町(おおすがちょう)にありました鉄道教習所へ寮母として通勤していました。

「お母ちゃん、遅かったね」

昭和20年8月6日、私は仁保町(にほまち)青崎(あおさき)の自宅にいました。警戒警報(けいかいけいほう)が解除になり、外に出ようとして窓を開けたとたんパァーッと光りました。刃物のゾクッとするような光でしたが、隣のおじさんに「あれは何ですか」と聞くと、「殺人光線じゃろ」と言われた。

 

私は目がくらんで気分が悪くなり、ガラスがこわれて畳(たたみ)の上にいっぱい散らばっていたその上に、しばらくうずくまっているうちに、フト気が付き、娘の事が心配になり、東洋工業の前まで行きましたら、もうそれこそ何とも言えん格好(かっこう)の人でいっぱいです。後ろにザラッザラッと何かを引こずってくる人があるので、何だろうと思いましたら、全身からむけた皮を引こずっておられ、まったく驚きました。それが「お母ちゃん、お母ちゃん」と言うから娘かと思いましたが、違っていました。千江もこんな姿になっているのかと思って防空頭巾(ぼうくうずきん)をかぶって広島駅の前まで行きましたが、火が回ってとても行かれません。一生懸命、探したのですが娘の姿は見当らず、仕方なくあきらめました。「家に帰っているかもしれん。」行き違いになったかと思い、急いで家に引き返したのですが帰っていませんでした。

 

8月7日の朝6時ごろ、「保田さんの家はどこですか」と呼ぶ人がありました。娘の勤め先の石田さんという職員さんで、「着物を持って迎えに行って下さい。千江さんは、太田川(おおたがわ)、白島町(はくしまちょう)の土手のほとりに寝かされています」との知らせに、石田さんと近所の人と4人でタンカを持って走りました。収容されているところへ、8時ごろ着いたと思います。大勢の負傷者、死体の中からようやく娘を見つけました。朝、出勤時はブラウスを着て、モンペをはいていましたが、全身が腫(は)れ皮がむけ、顔も一皮(ひとかわ)むけ、そのうえ、ふくれ上がって見分けがつきません。声でやっと解る状態で、「お母ちゃん、遅かったね」が最初の言葉でした。

 

裸同様の上に着物を着せる事もできず、上にかけてタンカで家まで運びました。途中、娘が「お母ちゃん水が飲みたい」と言うので、広島駅前にあった大きな防火水槽の水をタオルにしませ飲ませました。水槽の中には死体が多く浮いていました。13時ごろ家に着きました。娘はあまり口もきけず、「お母ちゃんは死んでいるかと思った」と言いました。娘の体からいやな臭いがし、あちらこちらからウジ虫が這(は)っているので取ってやりましたが、水を飲ませると熱が出て死ぬるとか聞いていたので、与えませんでした。娘を9時間抱いていましたが、22時亡くなりました。22歳でした。後になって、なぜ欲しがっていた水を飲ませなかったかと、35年経過しても娘の声が耳の底に残り、後悔の念に堪(た)えません。が、家に帰る途中、防火水槽の水を1回でも与えたのだと、自らを慰(なぐさ)めています。

 

8月8日、青崎小学校の校庭で、多くの被爆犠牲者と一緒に骨にして、娘の骨を抱いて田舎(いなか)へ帰ったのは8月15日でした。当時の食事は、外米(がいまい)の配給に、野菜といえば鉄道草などを米の中に入れ雑炊(ぞうすい)にして食べました。食塩の配給が少ないため、向洋(むかいなだ)の海辺によく塩水を汲(く)みに行ったものです。

復員した息子の自殺

幸いにして負傷はありませんが、8月10日ころより下痢が約1ヶ月続き、吐気(はきけ)が8月15日より約2ヶ月もあり、体がだるく食欲もなく、微熱も続きました。脱毛は11月中ごろから始まり、2ヶ月間で丸坊主になり、頭に手拭(てぬぐい)をしばらくかぶっていましたが、医療(いりょう)は受けませんでした。被爆後、職もなく、売食いの状態の時、昭和21年2月28日、中支から息子が復員してきました。大きなマスクをして、毛布など大きな荷物を背負い、帽子を深くかぶっていました。問うと、「戦死するつもりであったのに、生きて帰って、顔を見られるのが恥ずかしい」と言いました。私にとっては本当に嬉しかったのです。ところが、息子は妹の死を知り、本人が無事に復員した事を、戦死した多くの戦友(せんゆう)たちに申し訳がないとか言って、自分を随分(ずいぶん)責(せ)めていたようでした。

 

当時は先程も申しましたように、食糧事情も悪く、私がいろいろと苦労をするのも見かねてか、昭和21年9月23日、1通の遺書を残し鉄道自殺をしました。原因はノイローゼになっていましたが……。26歳の若さで私1人残して亡くなってしまいました。かわいそうなことをしました。母親として気がつかなかった点を、返す返すも悔まれてなりません。

 

私は孤独感、苦しみを神に救っていただきたい気持で、昭和23年、キリスト教新教の洗礼を受けました。昭和24年、牧師さんのすすめにより神戸(こうべ)のキリスト教新教学校の寄宿舎に入り、信者の家を回り、お手伝をして働きました。昭和40年ころから体調が次第(しだい)に悪くなり、アパートの1室を借りて生活保護を受けて暮していましたところ、乳ガンと診断され、昭和43年10月手術を受けました。経過は良好で、昭和48年までは神戸に住んでいました。神戸被爆者の会長さんから、当ホームの話しを聞かされ、再び、48年8月に広島に帰ってきました。

生きる希望

昭和48年9月8日に入所出来ました。設備も大変良く、職員の皆さんもやさしくありがたい事だと思っていました。

 

入所を決める時は孤老(ころう)の人たちばかりだと思っていました。入所したところ、肉親のいる人が多いのには大変失望しました。私は1人でとても淋しい気持で、帰りたくとも帰る家もなく毎日泣いて暮していました。どこにも行くところもなく、ただ神様にお祈りするだけでした。今日にいたるまで、ずいぶんと努力がいりました。

 

今までに何人もの自殺者がありましたけれど、死ねる人が羨(うらや)ましく思われ、思い返して聖書を読みました。大切な命をむだにしてはいけないと、思いを変えて今日まで頑張ってきました。ホームに入ってから年2回位、瘢痕(はんこん)が出来、高熱で苦しんだ時のことは、言葉にも筆にも表わす事はできません。そのうちにテレビに2回ほど出ましたら、全国の皆さんや外国からも励ましの手紙をもらって、次第に気持も変わり生きる希望が出てきました。今では心からありがたいことだと感謝の日々を過しています。

保田キヌ(79歳) 記

被爆地
仁保町・屋内(爆心地より5.0km)
当時の急性症状
負傷なし。下痢(げり)が8月10日より約1ヶ月続き、吐気(はきけ)が8月15日より約2ヶ月あった。脱毛は1月中旬より2ヶ月間で丸坊主になった。
近親者の死亡
長女が仁保町で被爆死




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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