16.失明の悲しみ

生いたち

私は父・石橋次郎、母・タケの長女として明治43年6月12日に生まれ、弟2人、妹2人の5人兄弟。呉市(くれし)蔵本通り(くらもとどおり)に住んでいましたが、父の仕事の都合(つごう)で、私が3歳の時、広島市小網町(こあみちょう)に移って来ました。神崎(かんざき)小学校を卒業して、広島市立女学校を家庭の事情で中退して家事の手伝いをしていました。

熾烈な閃光

8月6日7時30分、家族7人で、今日1日何事もないようにと、皆でお祈りが終わってから食事をはじめました。8時に空襲警報(くうしゅうけいほう) が発令されましたが、まもなく解除(かいじょ)となりましたので、食事をかたづけていまいしたところ、8時15分熾烈(しれつ)な閃光(せんこう)と、地を揺るがす大爆音と同時に建物が傾く。体が宙に浮いたとたんに、建物の柱・壁・天井(てんじょう)・障子(しょうじ)などが倒壊(とうかい)し、私は奥座敷(おくざしき)にいて、その下敷きとなりました。その時右側頭部の額にかけて傷(きず)がひどく出血し、左目に障子のさんが眼球にさし込んで見ることが出来なくなりました。あちらこちらの家から火災が発生して来ましたので、私は家の下敷きから抜け出して、河原町(かわらまち)の方向に歩いて、川土手につきました。まわりは火の海でしたから本川(ほんかわ)に飛込みました。満潮で流木(りゅうぼく)につかまり、あたりが猛火(もうか)なのでお互い水をかけ合って、夕方まで川につかっていました。ようやく下火(したび)になったので川から上がり、その夜は、河原町の土手に野宿(のじゅく)しました。

 

8月7日は神崎(かんざき)小学校の収容所で傷の手当てを受けました。8月16日に本川小学校の救護所(きゅうごしょ) に転送され、治療(ちりょう)を8月31日まで続けました。9月1日に佐伯郡(さえきぐん)観音村(かんおんむら)の知人のところで苦しい生活を続けました。頭の傷は佐伯郡五日市町(いつかいちまち)・大前外科病院で治療を受け、だいぶんよくなりましたが、左目は痛みが続きました。

 

昭和20年10月に、日赤病院眼科にて左目を診てもらったところ、左眼球に障子のさんの木片(もくへん)が差し込んでいるので、眼球摘出(がんきゅうてきしゅつ)手術を受け義眼(ぎがん) となりました。主治医の先生もびっくりしておられました。

闘病(とうびょう)と生活苦

焼野ケ原(やけのがはら)の元いた家の跡にバラックの堀建小屋(ほったてごや)を建てて、母と弟3人、私と5人の生活でした。私は土橋(どばし)の失対現場(しったいげんば)で働いたり、空地(あきち)に鶏(にわとり)を飼い卵を売ったりして、わずかな収入で生活を続けました。

 

弟は昭和38年に精神病院に入院。母は42年に苦労を続けたため体が悪くなり、肺炎が原因で79歳で亡くなりました。1人暮らしで生活をしていましたが、昭和43年4月に乳癌(にゅうがん)のため原爆病院に入院、手術を受けました。

 

健康と生活に将来不安を感じ続けますので、昭和48年10月に原爆養護ホームに入所させていただいて、なんの心配もなく、本当に良かったと感謝しております。

石橋 清美(70歳) 記

被爆地
河原町、自宅の屋内(爆心地より1.2km)
当時の急性症状
全身倦怠(けんたい)・発熱3週間続いた・額の切傷(きりきず)・左眼の失明
家族の死亡
なし