21.九死に一生をえて

昭和20年8月6日

当時、私は千田町(せんだまち)にある自動車会社に勤務していました。あの日は午前8時に、原爆の中心地となった鳥屋町(とりやちょう)の親戚(しんせき)の葬儀(そうぎ)に父が参列することになっていました。朝早く空襲警報 (くうしゅうけいほう)が発令されていたので、両親は今朝だけは欠勤してくれといいましたが、給料日が近いので会計課に勤務していた私は、どうしても欠勤することが出来ず、挺身隊 (ていしんたい)として軽金属工場に勤務していた妹を休ませて、家を出ました。その時は空襲警報は解除になっていました。会社の会計事務室の下は、コンクリート造りの地下防空壕 (ぼうくうごう)となっていました。私の机の横に金庫があり、手金庫を出して椅子にかけて休んでいました。8時には5人出勤しており、隣の課長をはじめ皆暗い顔をして机に向かっていました。

 

ちょうどその時、“ピカッ”と閃光 (せんこう)があり、グラッときた瞬間、家や金庫とともに地下防空壕に落ち込み金庫の下敷となり、私は頭を強打(きょうだ)したため、その後一切意識がありません。その後の事については母や姉妹が、助け出してくれた会社の人々に聞いた事を総合してみます。

 

父は葬儀に参列していたが、中心地でもあり、家もろとも元安川 (もとやすがわ)に投げ出され胸部を強打(きょうだ)し、一時は意識を失ったが傍(かたわら)で妊娠中の姪(めい)が瀕死(ひんし)の中から、4歳になる愛児(あいじ)の名を呼んでいるのに気づき、川の中の家屋の残骸(ざんがい)にすがり、姪の身体をかかえて引きあげ、元安橋の袂(たもと)に寝かせて、「すぐに連れに来るから・・・。」といって家路(いえじ)についた。しかし崩(くず)れた家や電柱、電線の散乱で道らしい道はなく、各所の火災に阻(はば)まれてようやく夕方6時過ぎに半死半生(はんしはんしょう)で家に辿(たど)りついた。ケガをした頭をゲートルでまいて素足(すあし)のままでヒョコヒョコと入ってきて、そのままどっと倒れ苦悶(くもん)しはじめたので重態(じゅうたい)であることがわかった。私の帰らないことを父に話すと、町は火の海でとても千田町までは行けないという。夜空は真っ赤(まっか)で市内は燃え続けた。

8月7日

父は苦しい息の下から私を探しに行くように何度もいうので、母は父のことを負傷(ふしょう)した妹に委(まか)せ、黒煙(こくえん)が天をおおい、柱やがれきが道をふさいでいる中を通りぬけ、炎の猛(たけ)り狂う中を潜(くぐ)ってひたすらに千田町へと急いだ。途中、出会う人の顔と体は何という姿だろう。顔の皮や背中の皮がペロリとむけて垂(た)れ、皮がとれ肉色のままの両手を捧(ささ)げた人、男とも女とも分からぬ人が焼けて破れた服をわずかに身につけて、ただ黙々(もくもく)と市外へ市外へと逃れている。また、死にきれずもがく人、崩れた家の下から火に追われて這(は)い出し力つきてヘトヘトになり、起きつ転(まろ)びつ逃げようとする人。赤ん坊の頭のない体だけを背負って気狂いのように叫ぶ人。身体中血だらけで、まったく血達磨(ちだるま)のような人。「助けて助けて、火がつく」と泣き喚(わめ)く人。阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷(ちまた)とはこのことをいうのであろう。どんな気丈(きじょう)な母も気を失いかけたが、この悲惨(ひさん)な様子を見てますます私の安否(あんぴ)を気遣(きづか)い、くもの巣のように乱れ落ちた電線に足をすくわれつつ、しばらく会社付近まで来るには来たが、会社の建物は跡形(あとかた)もなく焼け失せ、その上、付近の火災のために探し出すことも出来ず、やむなく夕闇の中を帰途(きと)についた。

 

ちょうど、母が帰宅したところへ会社の人が来て、「課長と森さんは金庫の下敷となって人事不省(じんじふせい)でしたが、早く引き出さないと火が回りそうなので、無理に引き出しましたが、まだ脈はありました。課長は頭が砕(くだ)けて即死(そくし)でしたが2人を御幸橋(みゆきばし)の所まで運びました。そこへ陸軍のトラックが通りかかって、脈のある森さんだけを積んでどこかへ連れて行きました。相当の重傷(じゅうしょう)と思われますのでお知らせします。」という話に驚(おどろ)き、私の生存は絶望(ぜつぼう)と思っていたけれども父は苦悶(くもん)しながら、「探して来い、探して来い」というのです。

8月8日

夜明けを待って母はまた探しに出かけました。人の噂(うわさ)などをききながら昨日の道を千田町方面へ回った。途中の川には死体がいっぱいに浮いていた。やっと御幸橋あたりまで辿(たど)りつき、広陵中学校 (こうりょうちゅうがっこう)を探したが、みな焼けくずれあちこちが燻(くすぶ)っていた。途中、無数の死骸(しがい)や死の寸前の人々を目の前にしてはそのまま通り過ぎることもできず、水を求める人には水を探し、与えてはついに丹那(たんな)、日宇那(ひうな)まで足を運んだが見つからなかった。途中「似島 (にのしま)に負傷者がたくさん収容されている」という話を聞いて、ただちに宇品(うじな)へ行ったが、罹災証明 (りさいしょうめい)がないと乗船(じょうせん)できないというのでいたし方なく帰途についた。全市はまだ燻りつづけ腐乱(ふらん)死体の臭気や死体の焼ける臭いが満ちている中を夕方になって家に帰った。

 

帰れば父は重傷に苦しみ、私の行方(ゆくえ)は分からず、また、妹は顔の切傷(きりきず)で顔面膨(は)れ上がり、家の中は吹き飛ばされて見る影もなく、この時ばかりは母も一緒に死んでしまいたいと思ったと言っていました。父の容態(ようだい)は悪化(あっか)するばかりだが、医者はなく手当てのしようもないのでただ強打(きょうだ)した胸や腹の回りをなでながら夜を明かした。

8月9日

母はまだ私の死をあきらめきれず、出血や痛みのやや軽くなった妹に父の看病の世話をいい含(ふく)め、罹災証明を手にして「お父さん、今日も探しに行ってくるから」と言う。「うん、探しに行って来い」と父も苦ししい息の下から答えた。母はこれが最期(さいご)の別れになろうとも知らず早朝出かけた。宇品でなかなか船に乗れず、ようやく似島に渡った時は昼すぎであった。詰所(つめしょ)で私の姓名を告げると「死亡者はこれに記載(きさい)してあるが、その他は病棟(びょうとう)を探して下さい」とのこと。見れば付近は死骸(しがい)の山で続々(ぞくぞく)と死骸が運び出されてくる。これではとても生きてはいないだろうと思ったが次々(つぎつぎ)と病棟を探してみた。

 

しかし、ついに見当たらないので、また、詰所でたずねると、この病棟の反対側の山裾(やますそ)に重患(じゅうかん) 収容所があるという。さっそくそちらへ駆けつけてみたが、200人あまりの患者はいづれもムシロ1枚の上に、髪は乱れ顔は血や埃(ほこり)にまみれたまま横たわっているので、1人1人念を入れて探さないと、ちょっとわからない。母は最後の病棟であり丹念(たんねん)に探していると、やや中央から奥まった所に破れたシミーズズロースだけの若い女が目にとまった。首から御守り(おまもり)を下げているのを発見して、ハッとなりとびつくように近づいてみるとそれが私だった。御守りをあけてみると、宮島弥山(みやじまみせん)の三鬼神(さんきしん)の御礼(おふだ)と住所、氏名を書いた紙が入っていた。まちがいなく我が子(わがこ)だと思う。母のこの時の喜びはたとえようもなく、神仏(しんぶつ)のお引き合わせに合掌(がっしょう)して感謝するとともに、今日まで4日3晩の不眠の疲れもこの瞬間に消え去ってしまったといっていた。

 

私が意識がないので看護兵 (かんごへい)に容態をきいてみると、「頭部強打のため左耳より出血多量で全身打撲(ぜんしんだぼく)だ。今日まで意識不明なので到底(とうてい)助かる見込みがないため、放置(ほうち)してある。」との返事であった。母はたいへん驚いてよく見ると、肩、腰、下肢(かし)などひどい裂傷(れっしょう)があり化膿(かのう)してウジ虫がわいているところもあった。看護兵に頼んで薬をもらい懸命(けんめい)に看護(かんご)に当たったが、薬と名のつくものはガーゼと赤チンだけで、これを化膿してウジ虫の生じている傷に塗るより他に術(すべ)がない。私の手当てをしながらも、見るに見かねて他の重傷者の看護に当たったのだった。重傷者ばかりだったのでその様相(ようそう)たるや全くの生地獄(いきじごく)である。そして次々と死骸が運び出され、また、次々と見込みのない患者が運び込まれてくる。ヤケド、切傷(きりきず)の化膿した臭いに加えて糞尿(ふんにょう)はそのままなので病棟の強烈な臭気に気も遠くなるほどである。この中で母は疲れ果てた身に勇(ゆう)を鼓(こ)して私の看病に専念してくれた。

 

夕方、母は看護兵に頼んで、竹の筒に入った麦の重湯(おもゆ)をもらった。少しずつ口に入れると私が口を動かして飲んだので母は「助かる」どうしても助けてみせると勇気がわいたという。それから毎回頼んで重湯を少しずつ飲ませた。家では午後から父の容態が急に悪化(あっか)し、「母はまだ帰らぬか!母はまだか!」と苦しい息の中から幾度も繰り返し問いつつ妹1人に看(み)まもられて59歳の最期(さいご)を淋しく閉じたのである。母が私を見つけた時刻、午前3時ごろと同じであった。妹はなす術(すべ)も知らず、ただ呆然(ぼうぜん)として母の帰りを一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待った。

8月10日

 

妹は待ったが母は今日も帰ってこなかった。

8月11日

父の遺体(いたい)をそのままにして母を待ったが、ついに帰らず暑い時でもあり、このままにしておくこともできず近所の人に頼んで、付近の山辺(やまべ)に運び、妹1人で荼昆(だび)にふした。今日なお帰らぬ母の身を案ずる妹。どんなにか悲しく淋しかったことでしょう。母は父の死も知らず一生懸命に看護に当たってくれたが、私の容態は依然(いぜん)として変化なく、傷の化膿はますます悪化してくる。

8月12日

朝になると看護兵が「今日で似島収容所は閉鎖(へいさ)される」という。私どもはここから宮内(みやうち)小学校に移されることになった。私は昏睡(こんすい)状態のまま母につき添われ、他の患者とともに団平船 (だんべえぶね)に乗せられ、船からトラックに移されて小学校に運ばれたが、炎天下(えんてんか)で何ひとつ日覆(ひおお)いもなく、途中死亡者が続出した。

8月13日

小学校ではじめて医師の診断をうけたところ「到底(とうてい)見込みなし」とのこと。母は見込みのないものなら自宅で終わらせたいと医師に相談すると、連れて帰る途中で死亡するかもしれないとのことだった。連れて帰るには車がいる、母はもう疲れ果てていた。家の事も気にかかり車をとりに帰る事にして、隣に看護に来ていた奥さんに頼んでいそいで帰った。漸(ようや)く家について妹から父の死をはじめて知り、今まで張りつめていた気も一時に失せて母はその場に倒れてしまった。母は妹に宮内小学校の場所を教え、「明日、車を引いて迎えに行くから」といい、小学校へと急がせた。

 

妹は今夜ゆっくり寝るようにといい残し母の身を案じながら小学校へと急いだ。夕方遅く着いた。すぐ重湯をもらいに頼みに行くと、「もう皆にくばったのに!」とぶつぶついいながら炊(た)き出しに来ていた人が少しくれた。でも妹はありがたかったという。重湯を少しずつ飲ませるだけで、口もきかない私を一晩中、見守っていた。

8月14日

母は朝早く出たのに小学校へ着いた時は正午(しょうご)すぎていた。一刻(いっこく)も早く連れて帰りたいと、母と妹は荷車に私を乗せ、ゴザを日覆(おお)いにかけ、炎天下5 (り)余りの道を交代(こうたい)で車を引き、後ろから押して家に運んだのだった。母は途中で何度も私に被(かぶ)せてあるゴザをそっとはいでみては、「まだ生きてる。まだ生きてる」と暑さも疲れも忘れて家路(いえじ)を急いだ。草津(くさつ)から家まで瓦礫(がれき)が多く車が進まず困難だった。やっと家に着いた時はもう暗かった。私の生きているのをみてホッとし、母と妹は疲れも忘れ、「助かった、助かった、本当に連れて帰ってよかったね」と泣いた。被爆後6ヶ月間、意識ははっきりしなかった。

こうして私の長い闘病(とうびょう)生活がはじまったのです。父亡き後、老体に鞭(むち)うって私の治療費の捻出(ねんしゅつ)のために身を粉にして働いてくれた今は亡き母。また、一生懸命看病してくれた姉妹に心から感謝している。九死(きゅうし)に一生(いっしょう)をえた私は人生の旅路の終わりまでがんばりたいと思います。被爆後の生活は苦しかった。イモを主食とし雑炊(ぞうすい)の中には雑草の「ノビル」「ヨモギ」「ヨメナ」など食べられる草を入れて食した。また海草をとりに草津沖へ行き、いろいろと工夫(くふう)して食べた。

 

今は皆さんと一緒にホームでお習字をしたり、手芸をしたり楽しく生きがいのある生活をさせていただいている事に感謝しております。

佐川カズコ(66歳) 記

被爆地
広島市千田町・工場事務所屋内(1.7km)




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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