27.脳裏(のうり)から離れぬ悲惨

生いたち

私は山口県徳山市(とくやまし)大向(おおむかい)で父・住広関造、母・タマの次女として生まれ、大向尋常高等小学校(じんじょうこうとうしょうがっこう)を卒業後、家業の農業および和紙(わし)製造の手伝いをしていました。24歳のとき、徳田新平と結婚して、男子1人に恵まれました。夫は昭和13年、突然の病気で42歳で死亡いたしました。

 

長男・勝己は、満鉄に入社しましたが、身体を悪くして広島に帰り療養中(りょうようちゅう)、心臓麻痺(しんぞうまひ)で亡くなりました。私は段原日ノ出町(だんばらひのでちょう)に住み、昭和14年から霞町(かすみまち)・兵器廠(へいきしょう)炊事係として勤務しました。

不安な一夜

昭和20年8月6日出勤したのは8時。炊事班長から、今日の仕事について指示を受けましたので、取りかかろうとした時、突然、大きな音がしました。建物が揺れると同時に爆風(ばくふう)で窓ガラスが壊れ、窓ガラスの破片で右腕と手のひら、および後頭部を負傷しました。

 

ただちに避難(ひなん)するよう指示が出ましたので、職場の人たちと一緒に比治山(ひじゃま)下の防空壕(ぼうくうごう)に避難しました。そこには次々と、全身ヤケドで皮膚(ひふ)がただれた人、着ていた衣服も千切れたままで、防空壕入口付近にやっとたどり着いたとたんに息切れてしまう人もたくさんいました。防空壕で、薬も包帯(ほうたい)もなく、治療は受けられず、食事も取らないままで、不安な一夜を過ごしました。

 

翌日から、勤務先の兵器廠で被災者(ひさいしゃ)への炊(た)き出しをいたしました。朝から晩まで、炊事係の仲間たちと励(はげ)まし合ってがんばりました。おむすび作りと沢庵(たくあん)切りです。私は右手を負傷(ふしょう)しており、漬物を切る係でした。約1週間、夜は比治山下の防空壕へ帰って眠りました。

被爆した馬

8月10日、1人の姪(めい)のことが気になりますので、姪の勤務先・三滝(みたき)の陸軍病院分院に行って見ました。姪に面会は出来ませんでしたが、軽傷を受けてはいても、収容所で一生懸命にケガ人の方々の救助・看護従事中と聞き安心して帰りました。途中あの工兵橋(こうへいばし)のところに、被爆の馬1匹が倒れていました。そのそばにじっと立ったまま、目の見えない馬の悲しそうだった様子は、今でも強く印象に残っているのです。

炎天に被爆の馬の涙かな(昭和53年5月作)

 

私の勤務先の兵器廠倉庫4棟は臨時病院となって、被災者がぞくぞく運び込まれてきました。倉庫の板張りの上にそのまま寝かされていて、手当てらしい手当ても受けられず次々と死亡していく人々を見て、生き地獄(じごく)そのものでした。兵器廠の裏庭のあちこちに兵隊さんが大きい穴を掘って、遺体(いたい)を何人も重ねては油をかけて火葬(かそう)されていました。立ちのぼっていた悪臭と煙は、今思い出してもぞっといたします。8月12日だったと思いますが、やっと段原日ノ出町(だんばらひのでちょう)の自宅へ帰ることが出来ました。家は幸い火災は免(まぬが)れていましたが、部室の中は無残(むざん)で、窓ガラスは散乱(さんらん)し、家財道具は壊れ、後片付け(あとかたづけ)が大変でした。

炊事婦として

勤務していた兵器廠は解散(かいさん)になり、9月20日付けで退職しました。10月上旬、退職金を受け取って、郷里の山口県都濃郡(つのぐん)鹿野町(かのちょう)の兄の家で生活する事に決め、荷物を整理し、郷里へ帰りました。約1年くらい住んでいましたが、昭和21年秋、再び、元住んでいた広島市段原日ノ出町に帰って来ました。

 

勤めを修道中学校(しゅうどうちゅうがっこう)生徒の寮の炊事婦として、約10年間働きました。その後自宅にて小さなお好み焼屋を開業して生計(せいけい)を立てましたが、年老いて足腰が痛み動けなくなって、日々の生活にも困るようになり、生活保護を受ける事になりました。そのうち貧血症(ひんけつしょう)・心筋梗塞(しんきんこうそく)・動脈硬化症(どうみゃくこうかしょう)で昭和50年1月から4月まで段原内科病院に入院。治療(ちりょう)を受け、退院後、自宅より通院療養を続けました。

戦争の恐ろしさ

1人暮らしのため昭和50年11月1日、原爆養護ホームに入所させていただく事が出来ました。男女の区別さえつかぬ被爆の悲惨(ひさん)さなど、今も脳裏(のうり)に焼きついて、戦争の恐ろしさは忘れることは出来ません。

 

世界の平和を祈念(きねん)し、多くの犠牲者(ぎせいしゃ)の方々のご冥福(めいふく)をお祈りいたしますとともに、今日こうして生かされて、ホームでの満ち足りた毎日の生活に深謝いたしております。

徳田タミ(80歳) 記

被爆地
霞町、兵器廠の炊事場建物内(爆心地より3.0km)
当時の急性症状
下痢が20日間くらい・食欲不振・全身倦怠(けんたい)・ガラスの破片で右腕及び右後頭部を切傷
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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