26.ガラスの破片とのたたかい

生いたち

山口県玖珂郡(くがぐん)通津村(つづむら)で村田市郎の4人姉妹の次女として出生。28歳で上岡静郎と結婚していたが、夫はアメリカに渡航(とこう)し音信不通。20年後離婚をした。昭和22年7月、河村徳夫と再婚した。

実家で治療

昭和20年8月6日、私の勤め先、出汐町(でしおまち)、陸軍被服支廠(ひふくししょう)・将校集会所高等官の炊事に出勤し、高等官事務所長から作業の開始の命(めい)を受けて、私たちの班50名が作業を始めました。8時15分突如、目がくらむ強烈(きょうれつ)な光が走った。それから物凄(ものすご)い地響(じひび)きが、赤い煉瓦(れんが)造りの強固な被服支廠の建物を崩(くず)れるばかりに揺れわたりました。私は窓側にいたので、窓ガラスの破片数10個が頭・顔面に深く入り込みました。屋外に出ようとしたところ、木材が頭上に落ち切傷(きりきず)を受け、血が噴(ふ)き出しました。その瞬間、意識はもうろうとしていました。作業班の方々(かたがた)に介助されて支廠の救護所に運ばれました。ケガをした人が並んで寝ていた。医師から外傷の手当て治療(ちりょう)を8月15日まで続けて受けました。治療を受けながら思いました。薬品も不足しており、充分な治療をしてもらえないこと。これならば、実家の山口県玖珂郡通津村に帰って治療したいと先生に話しましたところ、お許しを得ました。皆実町(みなみまち)の家に残している家財道具(かざいどうぐ)などは全部置いておきました。家は倒壊(とうかい)しておりますが、そのままにしておきました。夫の義父母(ぎふぼ)と義妹(ぎまい)3人は、佐伯郡(さえきぐん)廿日市町(はつかいちちょう)の主人の弟の知人のところへ疎開(そかい)してお世話になっていて無事でした。

 

私は治療のため、郷里の山口県玖珂郡通津村へ向かう途中、広島駅にて終戦を知りました。日本が負けたことを知り、こんな思いをしたのにと悲しくて、思わずその場で泣いてしまいました。とにかく戦争が終わったことで気が抜けました。広島駅から大竹(おおたけ)駅まで列車が不通(ふつう)のため、歩いて藤生(ふじう)駅へ、そこから通津駅まで汽車に乗りました。通津駅で下車して、生まれた実家に帰りました。家族の者は死んだものと思っていたのが生きて帰ったのでびっくりしていましたが、皆で喜んでくれました。途中、暑さのためケガした所や腰部が痛むので、何度も死にたいと思いました。実家で家族の者から傷の治療、赤チンを綿にひたしてつけてもらって、傷もだんだんと良くなっていきました。特に22歳になる姪(めい)がよく世話をしてくれました。静養を続け、1ヶ月で全治(ぜんち)しました。

被爆後の生活

気になるのは勤務先のことでした。9月20日ころに広島市に帰り、広島被服支廠に勤務。財務整理(ざいむせいり)に当たり、11月まで服務(ふくむ)しました。12月でほとんどの者が退職となりました。退職しましたので山口県の実家に帰り、家業の農業を手伝うことに決め、荷物は船で通津駅まで送りました。

 

昭和22年、夫はアメリカで死亡いたしましたので、佐伯郡(さえきぐん)宮島町(みやじまちょう)・河村徳夫と再婚しました。昭和48年に主人が死亡しました。入院中の夫の看護をしておりましたころから腰痛がひどくなり、別府市(べっぷし)照波園(しょうはえん)に入院、治療を1年6ヶ月続けたら良くなりました。退院し宮島町の自宅に帰って生活をしていましたところ、20日くらいして骨がまた悪くなったので、広島原爆病院に再入院しました。

ホーム入所前後

原爆病院で治療を続けていました病状も固定しました。宮島町の町営住宅は取り壊してあり、居住することが出来なくなりましたので、福祉事務所の勧めもあり原爆養護ホームに入所しました。身寄りもなく体力も弱り、健康に自信がないので、入所して心から良かったと思っています。これからはもう2度と戦争は絶対にしてはいけない。この苦しみは私たちだけでたくさんだと考えております。この平和が長く続くよう祈っています。

河村ミネ(79歳) 記

被爆地
出汐町、広島陸軍被服支廠集会所屋内(爆心地より3.0km)
当時の急性症状
髪の毛が抜け右背打撲・ガラス破片刺・頭の切傷
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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