23.消え去らぬ三滝山の山道

生いたち

私は横川町(よこがわちょう)・清水清助の次女で、三篠(みささ)小学校から、大正8年に進徳(しんとく)女子学校を卒業しました。父が薬販売を営んでいたので家業(かぎょう)を手伝っていました。

 

21歳のとき永岡一郎と結婚。男の子2人の母親となりました。2男は9歳のとき死亡。現在長男は健在で吹田市(すいたし)に住んでいます。

 

昭和7年夫の一郎が胃潰瘍(いかいよう)で亡くなりました。その後は土井田(どいだ)洋裁学校に通い卒業。同校の教師として昭和19年ころまで勤めました。戦争が激化(げきか)し洋裁などは出来なくなりましたので、陸軍被服支廠 (ししょう)打越出張所に勤務しました。仕事は帽子(ぼうし)・シャツ・軍服(ぐんぷく)・ズボンの検査および一般の事務を担当(たんとう)していました。

被爆当時の状況

昭和20年8月6日、事務所の出勤は8時からなので7時30分、広瀬町(ひろせまち)の家を出ました。事務所についてから空襲警報 (くうしゅうけいほう)が発令されましたが、まもなく解除になりました。宇野本出張所長から今日の仕事について、15人の職員に指示がありました。事務所で机に向かって書き物をしていたとき、8時15分、左側の窓ガラス戸に稲光 (いなびかり)のような光がさしました。2階建の窓ガラスは壊れ、事務戸棚は倒れ、事務室は爆風 (ばくふう)でねじれてしまいました。

 

私は瞬間、机の下へころびました。頭はガラスの破片で櫛(くし)も通りませんでした。左の額をガラスで切り、出血したまま何分間か気を失っていました。気がついて助けをもとめましたが、だれも見つかりませんでした。隣の仕事場を見まわすと、女工(じょこう)さんがミシンにはさまれて死亡しておられ、大変でした。小使い(こづかい)さんも倒れてなくなっておられました。

 

私はこわくて避難(ひなん)することにしました。広瀬町内で変わった事があった時に避難するよう決められていた安佐郡(あさぐん)古市村(ふるいちそん)のお寺に歩いて行くことにしました。途中、三滝山(みたきやま))の上から下を見おろしましたところ、ケガをした人の行列(ぎょうれつ)でした。皆さん裸で、全身の皮膚(ひふ)がむけて長くたれた人、人。実にお気の毒でありました。それらの方が水をくださいと言われたので手で水をくんでは飲ましてあげました。古市のお寺について見ましたら、たくさんの人でいっぱいでした。カタパン10個とナスビの漬物をいただいて食事をし、その夜は裏の畑にカヤをつり30人くらいでざこねをしました。

 

翌7日朝早く、私は安佐郡久地村(くちそん)まで歩き、伊藤明宅についたのが暗い8時ごろでした。伊藤さんには家財道具(かざいどうぐ)を預けておりましたので、9月中ごろまでお世話になりました。9月下旬に佐伯郡(さえきぐん)大野村(おおのそん)の田中様宅に移り生活を続けることにしました。田中様の娘さんを戦前、土井田洋裁学校で教えておりました関係で大変よくしてくださいました。

被爆後の生活

昭和21年9月ごろ、佐伯郡大野村から広島市幟町(のぼりちょう)に移り、美戸洋服店に勤めて生活しておりました。

 

中支那出征 (しゅっせい)していた長男が21年12月に復員してきました。親子2人で抱き合って泣いて喜びあいました。長男は職業安定所に勤めるようになりましたが、大阪市へ転勤となり、また、私1人の生活に戻りました。PL教団にお参りしていたとき、美戸久一郎と再婚。夫の洋服業を助けながら一生懸命に家庭を守っていましたが、43年に夫は肺炎でなくなりました。

ホーム入所前後

昭和55年脳炎(のうえん)にて4月19日倒れましたので、27日舟入病院(ふないりびょういん)に入院しました。8ヶ月入院生活を続け、11月27日原爆養護ホームに入所。以来、日に日に健康体になりつつあります。皆様からご親切にして頂く事をありがたく感謝しております。早く元気になり、人様(ひとさま)のお役にたつ私となりますよう祈っています。

美戸フサコ(79歳)

被爆地
打越町、陸軍被服支廠打越出張所事務室内(爆心地より1.8km)
当時の急性症状
頭部の切傷
家族の死亡
なし




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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