25.原子雲を見ながら

男手なしの生活

夫・明神正照(37歳)出征中
妻・妙子(33歳)
長男・正幸(1歳)、母・シズ(55歳)

夫は昭和19年3月佐賀市(さがし)の陸軍通信隊に応召 (おうしょう)して、3ヶ月、原隊教育訓練 (げんたいきょういくくんれん)を受けて、7月に山口聯隊 (れんたい)に転属(てんぞく)となり南方 (なんぽう)方面に出勤しました。

 

留守家族で食べ物が不足で、毎日、長男の乳呑子(ちのみご)を連れて買出し (かいだし)に行くことが続き、家を出る生活でした。家にいるときは竹槍 (たけやり)の軍事訓練 (ぐんじくんれん)、また、兵隊さんの軍服(ぐんぷく)のボタン付け、当番制で建物疎開 (たてものそかい)の整理に出るなど、男なしの生活で、それはとても苦労がつづきました。

炎・柱のごとく

昭和20年、8月になって、母と子どもが高田郡(たかたぐん)向原村(むかいはらそん)の田舎(いなか)にとまりに行って留守でした。8月6日、母と子どもに配給の食料を持って行こうと思いまして、玄関にカギをかけようとしたところ空襲警報 (くうしゅうけいほう)が発令となり、しばらくして解除となりましたので、またカギをしているとき、目に炎の柱のごとき感じがしました。音も何もわからず、サツマ芋の畑に飛ばされていました。

 

気がついて、近所の奥さんとともに江波山(えばやま)の麓(ふもと)の陸軍の射的場(しゃてきじょう)にむけて逃げました。横川(よこがわ)方面に爆弾 (ばくだん)が落ちたという事でした。そして私は観音町(かんおんまち)の埋立地(うめたてち)より己斐(こい)駅に出て、新庄町(しんじょうちょう)の竹薮(たけやぶ)まで逃げたところ、幸いなことに、高田郡吉田町(よしだちょう)に帰るトラックがいました。運転手さんにお願いしたところ、乗せてあげるといわれたのでトラックの後ろに乗せてもらいました。トラックの上から、広島の上空(じょうくう)にある原子雲 (げんしぐも)を見ながら、11時ごろに吉田町の実家に帰りました。実家の家族のみんなとともに元気であったことを喜びあいました。

 

それから1週間過ぎて被災証明 (ひさいしょうめい)を受けるために広島市に帰りました。広島駅に着いて、的場町(まとばちょう)から紙屋町(かみやちょう)、十日市町(とうかいちまち)、土橋(どばし)を通って、舟入川口町に歩いて帰りました。途中、福屋 (ふくや)、紙屋町、土橋のところに焼けた無惨(むざん)な電車の姿がありました。

 

暑い中、焼け野原(やけのはら)を歩いて舟入川口町の自宅に帰って見ますと、家は跡形(あとかた)もなく焼けていました。前の歯科医の家は傾いて人様(ひとさま)はだれもおられませんでした。どこかに避難(ひなん)されたのだと思いました。そうしていたところ、隣のおばさんが建物疎開 (たてものそかい)の勤労奉仕 (きんろうほうし)に行かれて行方(ゆくえ)がわからないため、おじいさんが尋ね歩いておられました。そのおじいさんは、探し歩いたためガスを吸ったので体を悪くされ、亡くなられたことをあとから聞きました。

戦争は絶対に反対です

我が家は焼けてしまったので、母と長男と3人で高田郡吉田町に住むことにしました。3人で生活を続けることになりましたが食料が不自由で、わずかに持っている物を子どもを連れて、農家に物々交換 (ぶつぶつこうかん)に行きました。米・麦・イモ等と交換して苦難な日々の生活を送りました。

ひたすら戦地に出征 (しゅっせい)した主人の帰りを待ち続けておりました。吉田町にも出征された方が復員 (ふくいん)されつつありました。主人が帰るのではないかと、復員列車が広島駅に着くたびに、時刻を調べては吉田町から広島駅に迎えに、たびたび行きましたが、とうとう帰ってきませんでした。昭和21年12月に広島県から吉田町役場に戦死の公報 (こうほう)を受取りました。

 

当時はインフレで物価が高く、円の切替えで金に困りました。何の補償(ほしょう)もないので国を憎みました。そのうえ、私の体は弱るばかりでした。これからどうしてよいやらと、毎日毎晩悩み続け暮らす日々でした。食べものに不自由しますので、自給自足(じきゅうじそく)しなければならないと思い、畑を借りることにしました。畑は高田郡柳原(やなばら)の川原に1 (せ)借り受けましたが、何分(なにぶん)にも遠くて、畑は荒れておりました。けれど開墾(かいこん)に一生懸命でがんばりましてジャガ芋を植えました。とてもつらいこと、言葉には言い出せない思い出がたくさんあります。

 

それから高熱が続いたり、髪が抜けたりして、ぼつぼつと体が弱くなって来ました。ある日突然、神経痛のような痛みが足に来ましたので、向原病院で治療していただきました。ハリ・灸(きゅう)・温泉療法(おんせんりょうほう)を続けましたがひどくなるばかりでしたので、昭和29年に日赤病院で診察してもらったところ「カリエス」と言われて、ただちに入院するよう勧められたので、家の近くの吉田病院に入院しました。

 

今のベトナム難民の子どもを見るとき、当時の日本と同じだと思います。長男を育てた時、やせて腹ばかり大きい乳呑子(ちのみご)がたくさんいました事を知っています。舟入(ふないり)小学校で乳幼児の検査の時、ミルクをもらえなかった事がつらいことでした。今は天国のごとしです。やはり戦争や被爆(ひばく)で大きな“死”の犠牲(ぎせい)があった事を忘れてはならないと思います。
戦争は絶対に反対です。
こうした犠牲は私たちだけでよいと思います。

明神妙子(68歳) 記

被爆地
舟入川口町・自宅の玄関(爆心地より2.0km)




ここに掲載する文章の原著作者は、広島原爆養護ホーム「舟入むつみ園」の運営団体である「財団法人 広島原爆被爆者援護事業団」がそれに該当します。

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